島津貴久譜
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
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年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
北原兼守死後に真幸院の家中が分裂し、白坂氏らが島津方へ従った経過を記す。島津方は六月三日に横川城を攻め、北原伊勢守・新助が妻子を自ら討ったのち城外で戦死し、島津勢が城を落として横川を菱刈氏へ恩賞として与えた。
年月日未詳 / 冊子 110~111頁
北原兼守死後の家督争いで伊東義祐が真幸院へ介入し、北原兼親が球磨へ逃れたのち、白坂氏・樺山玄佐・相良氏の支援で飯野へ復帰した経過を記す。大川平氏の防戦と今城築城、島津方と伊東方の境界が不安定になった事情も詳述する。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、横川城に拠って島津方へ背いた北原兼正を討つため、永禄五年六月三日に義弘らが出陣した。新納忠元は伊集院久春と先登し、城門で槍を振るって負傷しながら城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、北原兼正が横川城に立て籠もったため、永禄五年六月に島津方が攻撃した。歳久を大将とする軍勢の中で、新納忠元は伊集院久春と先登し、城戸で槍を合わせて城を攻め落とした戦功を記す。
嘉禎四年五月日 / 冊子 171頁
地頭兼守護所僧忠兼が、薩摩郡内平礼石寺座主忠兼解を受け、寺領四至内の雑事・公事免除を先例と旧証文に基づき認めるよう申した状。寺領への地頭方の妨げを退けることも求める。
年月日未詳 / 冊子 350~351頁/原整理番号 48
北原兼守の死後に兼正らが横川城へ籠もったため、島津方が攻めた時の忠元の働きを記す。伊集院久春が先に登り、忠元は城門で槍を用いて戦い、城は陥落した。別の記事では伊集院元巣と城戸口で戦った際の負傷や、溝辺に貴久が滞在した時に両人を派遣したことも記し、攻城での忠元の功を伝える。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 115頁
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
現行年紀:建保五年十月 日 / 冊子 24頁/原整理番号 8/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0008
留守所に対し、将軍家下文の旨に任せ、清忠を祢寢院内南俣の地頭職として沙汰するよう命じる大隅國司廳宣。 副下として将軍家下文を掲げる。 清忠が重代の上にあり、文書の理が分明であると述べ、早く当該下文に任せるべきとする。 年紀は建保五年十月で日数は記されず、宮内權大輔兼守藤原朝臣の花押を伴う。