種子島漂着唐船六十一人の移送を報じる書状
宝永七年寅閏八月十一日 / 冊子 915–916頁/整理ID 2979
佐久間信就・久松定持が島津吉貴へ、先月十九日に大隅国種子島内へ唐船が漂着し、乗組員六十一人を船に乗せたと報じる。赤尾木浦で御抱入番船に移し、日和を待って津へ送り越す段取りを伝える。
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宝永七年寅閏八月十一日 / 冊子 915–916頁/整理ID 2979
佐久間信就・久松定持が島津吉貴へ、先月十九日に大隅国種子島内へ唐船が漂着し、乗組員六十一人を船に乗せたと報じる。赤尾木浦で御抱入番船に移し、日和を待って津へ送り越す段取りを伝える。
宝永七年閏八月廿七日 / 冊子 921頁/整理ID 2987
佐久間信就・久松定持が島津吉貴へ、大隅国種子島に漂着した唐船と乗組員六十一人を御抱入番船へ移したことを報告する。警固を添えて長崎へ送った船が今月十七日に着いたと伝え、先のNo.2979の移送予定に続く到着報告となる。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年六月十九日の放生会で、島津忠綱が越州任例の供奉人百六十一人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年六月十九日の越州任例の供奉について、人数百六十一人の中に島津久経が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年六月十九日の放生会で、先例どおり供奉人百六十一人が定められ、島津忠行がその一人として列したことを記す。
元禄十二年十月朔日 / 冊子 171頁/整理ID 601
島津綱貴の口上覚は、寧波発の来朝唐船一艘(乗員六十一人)が九月二十五日に領内下甑島の小串へ入り、荒波のため同島の手打浦へ曳き入れて番船を付けたと報告する。日和を待ち、警固の者を添えて長崎へ送る旨を申し越したとする。
元禄十三年十月十三日 / 冊子 243頁/整理ID 827
島津綱貴が幕府へ、唐船一艘・乗員六十一人が先月二十九日に薩摩国甑島へ漂着し、船が破損したため家臣が長崎奉行衆へ直ちに届け出たと報告した口上覚。唐船を長崎へ送り届け、引渡しが済み次第を改めて報告すると述べる。
元禄十三年十一月九日 / 冊子 247頁/整理ID 839
島津綱貴が幕府へ、先に報告した帰唐船一艘・乗員六十一人を国元の家臣が長崎奉行衆へ送り届け、相違なく引き取られたとの報告が国元から届いたと申し上げた口上覚。甑島漂着を報告した先行文書に続く、長崎での引渡し完了報告である。
寛保三年十二月廿一日 / 冊子 751頁/整理ID 1951
継豊は、薩摩国水引村京泊に唐船が漂着し、荒天で岸近くの砂瀬に乗り上げて破損したと届けた。乗員六十二人のうち六十一人を救助し、一人は溺死した。生存者に食事と住まいを与え、警固を付けて荷物と船を調べた。船を修理して長崎へ送れるか見極め、使えなければ別船で乗員・荷物を長崎へ移す方針を記す。
年月日未詳 / 冊子 186頁
琉球渡海軍の諸隊・役職・人数と氏名を列挙した交名。軍役六十一人をはじめ各組の配属を記し、総人数七百十三人とする。
年月日未詳 / 冊子 41~42頁/原整理番号 46
北郷佐渡守(久加)宛の軍役賦写。知行高八千六百九十石を基礎に、「昇八本」、鉄炮・弓・鑓、馬験・玉薬箱・百矢臺・旗箱・道具持などを割り付ける。乗馬十九騎に一騎主従八人、計百五十二人とし、賦内の鑓持九人を含む旨を注記する。本文の合人数は二百六十一人、百石につき三人役。
年月日未詳 / 冊子 400頁/原整理番号 513
寛永十二年改めの男女二千三百二十六人から他方へ出た百四十二人と死去・逃亡した百七十五人を除き、残り二千九人に、その後の入人二百八十九人・出生百二十七人を加え、寛永十六年改めを男女二千四百二十五人(男千四百六十九人・女九百五十六人)とする。内訳は地頭・衆中・小者・出家・社人等千二百六十三人(男七百五十六人・女五百七人)と、町・在郷・座頭・行脚等千百六十二人(男七百十二人・女四百四十九人)で、後者の男女計は原記載上千百六十一人となり一人合わない。三月四日に白坂・谷口が記し、鹿児島から柳田喜左衛門尉が来て改めた目録の留と付記する。