沙弥某奉書
応永廿四年九月十二日 / 冊子 301頁
沙弥某が島津修理亮に、宇佐弥勒寺造営を大隅・薩摩・日向三か国の役として先例どおり厳密に遂行するよう命じた奉書。
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応永廿四年九月十二日 / 冊子 301頁
沙弥某が島津修理亮に、宇佐弥勒寺造営を大隅・薩摩・日向三か国の役として先例どおり厳密に遂行するよう命じた奉書。
文明十八年十月十九日 / 冊子 539頁
島津忠昌が修理亮忠廉に、日向国飫肥院の南北一円と櫛間院一円を領知するよう宛行い、早く現地へ赴いて統治するよう命じた宛行状。
(天正15年)5月16日 / 冊子 330頁
福智三河守長通が桑山修理亮の側近へ、二通の書状を披露したことを伝え、兵庫頭に翌日参上するよう返事を出すべきだと相談する。兵庫頭を同道して太平寺へ赴き、豊臣秀吉への礼参が遅れている件を協議するよう求めており、島津方家臣の出仕と礼儀を豊臣方が具体的に調整した書状。
三月三日 / 冊子 32頁
思いがけない対面と重宝の贈与を喜び、求めに応じて『吾妻鏡』などに見える相手の先祖の記事を書き写して送り、今後も用向きに応じると約した二階堂氏の書状。
文安三年九月十七日 / 冊子 415頁
樺山孝久が新納忠治・祢寝重清・肝付兼忠らへ、天下が変転しても一味同心に奥州方へ奉仕し、合戦・和談・凶事の際は心底を隠さず相談して協力すると神々に誓った契状の案文。
応安五年正月廿五日 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠に、島津修理亮と協力して忠節を尽くすよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津忠国について、初名を久、通称を又三郎、官途を修理亮・陸奥守とし、応永十年五月二日に穂佐高城で生まれ、母は伊東大和守祐堯の娘であったことを記す系図。
文安三年九月十六日 / 冊子 414~415頁
伴兼忠・右馬助重清・修理亮忠治らが連署し、天下が変転しても一味同心に奥州方へ奉仕し、合戦・和談・凶事の際は心底を隠さず相談して協力すると神々に誓った契状。
文正元年五月十二日 / 冊子 461頁
薩摩国高城郡泰平寺の薬師堂一宇を、大檀那修理亮藤原朝臣立久が修興したことを記す棟札。
年月日未詳 / 冊子 517頁
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。
年月日未詳 / 冊子 519頁
修理亮忠廉が庄内から平山へ帰り、二月十一日に鹿島内の川田城を攻めたが、川田飛弾守らが籠城して抵抗したこと、村田肥前守らの援軍と退却を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月十九日、修理亮忠廉が入来山を越え、翌日に祁答院藺牟田城を攻めた際、城の崩落や戦闘により班目右京亮ら多数の死傷者が出た経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520頁
同月晦日、修理亮忠廉が帖佐から帰陣したことを記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 523頁
文明十七年閏三月一日、修理亮忠廉が菱刈へ越山し、牛屎方面へ進んだ経過を記す島津忠昌譜。道秀父子と相良二郎五郎長輔・相良為續の内通を背景に、忠廉と長輔らが対面した。薩摩守方・北郷・樺山の三勢力が和議を整え、長期抗争を収束させようとした交渉過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525~526頁
文明十七年春、伊東方の山東・飫肥方面への進発と長雨・兵粮難、薩摩守重久・修理亮忠廉らによる都城方面の軍勢催促を記し、さらに竹田法印昭慶の医療と出陣をめぐる忠昌・伊東祐国・伊作式部太輔らの応酬を載せる長文譜記事。
年月日未詳 / 冊子 526~528頁
伊東方の飫肥進発と長雨・兵粮難、竹田法印昭慶の医療をめぐるやり取りを詳述する『文明記』記事。薩摩守重久・修理亮忠廉ら薩摩方が進軍して合戦を重ね、島津忠昌は鹿児島から船で出発し敷根へ着陣した。軍勢移動、補給、医療を含む長期戦の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 535頁
太守島津忠昌の帰陣後、祁答院方の帰属と処遇をめぐって薩摩守・修理亮らが評議した経過を記す。祁答院側には旧領から退去して福島へ移居させる一方、吉松を給付する案が示された。八月十五日、忠昌は谷山へ渡って諸将を召集し、条件不履行に備えた祁答院への発向を協議した。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
年月日未詳 / 冊子 537頁
同月二十四日、薩摩守・修理亮・右衛門祐がそれぞれ帰陣したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 567頁
明応四年四月十五日、豊後守忠朝・修理亮忠廉らが串良方面へ進み、陣尾で合戦したことを記す島津忠昌譜の記事。
貞享五年一月十三日 / 冊子 806頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2123
島津綱貴が進藤修理亮へ、前年十二月二十五日に左近衛権少将を拝命した謝意を述べ、口宣等の件で使者と目録記載の品を差し上げたので近衛家熙へ披露するよう依頼した書状。
元禄三年二月廿一日 / 冊子 853頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2269
島津綱貴が進藤修理亮へ、関白宣下を承知して祝意を述べ、使札を送り、肴三種と樽二荷を進上した書状。
年月日未詳 / 冊子 528頁
文明十七年六月十二日、島津忠昌が鹿島を発して敷根へ着き、翌日末吉、さらに都城方面へ進んだ経過を記す島津氏家譜記事。薩摩守重久・修理亮忠廉・北郷讃岐守ら諸将を率い、伊東方との合戦に臨んだ。鹿児島から日向国境へ至る進軍日程と軍勢編成を示す。
天正元年正月六日 / 冊子 297~298頁
天正元年正月六日、肝付氏の大軍が末吉へ侵入すると、北郷時久は二子相久・忠虎と兵を率いて住吉原で迎撃した。三将が自ら指揮して肝付軍を崩し、肝付修理亮・左兵衛尉、伊集院三河入道竹友、安楽因幡入道以下多数を討ち取った。敵の切捨人数は不明で、北郷方も川崎主税・田原大蔵信秀を失った。
十二月十三日 / 冊子 104頁
臺明寺衆徒が奉った祈祷巻数を受領したことを認め、祈願を継続するよう伝えた修理亮某の請取状。
応永二年二月廿九日 / 冊子 158~159頁
応永二年二月廿九日の犬追物について、伊東氏・島津一族・湯地氏・野村氏・鹿野屋氏などの射手を左右・組別に配した手組一覧。
応永二年二月廿九日 / 冊子 159頁
川上志摩家に伝わる応永二年二月廿九日の犬追物手組で、伊東氏・島津一族・稲津氏・野村氏らを組別に配置し、各人の担当数を記す。
応永廿年正月日 / 冊子 279頁
島津久豊が、願意が成就した時には日向・大隅・薩摩三か国から十町を寄進し、当年中は所領の大小に応じて寄進すると誓った立願文。
応永廿年十一月八日 / 冊子 282頁
島津久豊が山王御宝前で、三か国の大綱に関わる局面で神徳による理運を願い、今度の武運が守られれば立錐の地を寄進すると誓った立願文。
年月日未詳 / 冊子 412頁
島津忠国の時代について、文安二年の盟書下賜と琉球王尚思達の即位、翌年以降の新納・頴娃・肝付・島津久連らの盟約、樺山孝久へ二心なく協力して軍事に従うよう求めた盟書などを記す国史記事。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
永禄13年8月18日(目録) / 冊子 528頁/原整理番号 73-1
大乗妙典一千部を供養したことを記し、大願主の名と永禄十三年八月十八日付の願文を掲げる。
文書本文の日付:季春三日 / 冊子 540頁/原整理番号 四/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-D0004
受け取った書状を拝見し、今度は思いがけず参会して話を承れたことを本望と述べる。 度々の光臨や拝受に触れ、先度参申した際には既に御下向堺との由を聞いていた旨を記す。 御先祖のことを吾妻鏡以下の旧記で確認し、求めに応じて写し送ったと述べる。 「獻瓦礫」「金玉送給」と「催其興」を記し、今後も便宜に承り、相応の御用に疎略なく応じると述べる。
記事成立日:未確認 / 冊子 185頁/整理ID TMP-P02-CONT-A33
畠山修理亮直顯の在判書が五通あるとして、以下に掲げる共通導入記事。
記事成立日:未確認 / 冊子 187頁/整理ID TMP-P02-CONT-A39
畠山修理亮直顯の在判書があるとして、以下に掲げる導入記事。
記事成立日:未確認 / 冊子 187頁/整理ID TMP-P02-CONT-A42
島津修理亮氏久の在判書四通があるとして、以下に記す共通導入記事。
文暦二年閏六月廿九日 / 冊子 169頁
北条泰時が島津忠時に、鎌倉での奉公や所領給付に関する申請を承知し、今後も忠勤を尽くすよう仮名で伝えた書状。豊後修理亮を介した取次にも触れる。
建治三年十一月七日 / 冊子 295頁
新田宮造営をめぐる雑掌の書状。領家の年分御勤が不十分であること、神領九十余町や本地引募・国衙家御祈祷、彼祈田内の如形仮殿年々加修理などを挙げる。国衙から造営を勤めず、社家も年分勤を果たさず所望だけを申し立てるのは不当として、大隅修理亮に詳しい糺明と処理を求める。
年月日未詳 / 冊子 309頁
鹿屋氏の系図として、久経から初久時・修理亮・下野守らへ続く系統と官途を簡略に示す。
弘安五年三月十一日 / 冊子 312頁
島津久経から初久時へ続く系統を示す簡略な系図。久時の官途を修理亮・下野守とし、高久・信濃国守護代居住・法名教仏などの注記を伴う。
年月日未詳 / 冊子 673頁
光明天皇の時、島山修理亮直顕が日向国大田城に駐兵し、伊東藤内左衛門尉祐広・祢寝清種らが諸城の攻防に参加した経過を記す肝付兼重伝。櫛間城・高城・大田城等の城郭支配と軍勢移動、肝付方との合戦を述べる。
年月日未詳 / 冊子 674頁
建武三年十一月、島山修理亮直顕が日向国大田城に駐兵し、伊東祐広らを集めて肝付兼重方追討に備えたことを記す重久篤兼譜。
建武四年八月六日 / 冊子 695頁
鎮西の凶徒追討で長谷場十郎兵衛尉が尽くした軍忠を、島津修理亮七郎の注進により賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武五年七月十一日 / 冊子 714頁
土持新兵衛尉の軍忠を、日向国大将軍島津上野修理亮七郎の注進により賞し、今後も忠節を尽くすよう命じた足利直義感状。
暦応二年十二月十三日 / 冊子 726頁
日向国の凶徒追討で土持新兵衛尉が尽くした軍忠を、島津修理亮七郎の注進により賞した足利直義感状。
文和二年十月九日 / 冊子 842頁
足利義詮方が島津修理亮に、将軍家御台所領の日向国穆佐院・島津院を、若林弾正忠季秀の給主代へ沙汰付けするよう命じた御教書。
観応3年6月5日 / 冊子 308頁/原整理番号 119-20
観応三年六月五日、足利義詮が新田宮執印へ発給した軍勢催促状。将軍家御台所領の日向国穆佐院島津庄で、畠山修理亮直顕・伊東八郎以下の足利直冬方凶徒が城郭を構えて濫妨しているため、一色少輔太郎入道にその退治を命じたとして、新田宮執印にも合力するよう命じる。『旧記雑録前編一』2429号文書と同一と注記される。
文和5年6月17日 / 冊子 309~310頁/原整理番号 119-27
文和五年六月十七日、島津氏久(修理亮)が執印へ送った書状。「此堺合戦」は今が「大綱」の時分で頼みにしていると述べ、執印が同心すれば本望であるとして、重ねて期待を示し、詳しい返事を求める。『旧記雑録前編一』2586号文書と同一と注記される。