供奉役人注文
年月日未詳 / 冊子 82~83頁
『やく人いてたちの注文』として、若党・中間・はやのものなどを区分し、若党一人・中間五人などの人数、狩衣・直垂・烏帽子等の装束、役割と随行関係を仮名書きで定めた供奉役人注文。末尾の考証によれば、永和三年八月、今川了俊が肥後水島で催した宴会に島津氏久が奉公した際の注文であり、本文は前掲八月十日条の次に置くべきものとされる。
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年月日未詳 / 冊子 82~83頁
『やく人いてたちの注文』として、若党・中間・はやのものなどを区分し、若党一人・中間五人などの人数、狩衣・直垂・烏帽子等の装束、役割と随行関係を仮名書きで定めた供奉役人注文。末尾の考証によれば、永和三年八月、今川了俊が肥後水島で催した宴会に島津氏久が奉公した際の注文であり、本文は前掲八月十日条の次に置くべきものとされる。
(慶長七年)八月廿四日 / 冊子 841頁
島津惟新が本田六右衛門尉へ、忠恒の出船後に音信がなく案じていたが、三原諸右衛門尉から無事を聞き、二度の大風にも遭わず到着したことを喜ぶ。供奉衆に油断なく奉公させ、忠恒へ伝言するとともに、旅先の様子を詳しく知らせるよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 793・795頁
元和九年七月二十五日に徳川家光が参内し、島津家久が騎馬で供奉を務めたことを記す。あわせて参内に供奉した諸大名・近臣の交名を掲げる島津家久譜の記事。
(元和元年)八月六日 / 冊子 795頁
将軍参内に供奉した大名・近臣の姓名と席次を列記した交名。尾張中納言、水戸宰相、松平薩摩守をはじめとする二十三人を掲げる。
第一通知三月5日、他は三月(日不記)・明後21日や明20日の伺いを指定 / 冊子 535~536頁/原整理番号 695の2/整理ID 695-2
三月五日の通知は、親征を延期し来る二十一日に発途、石清水社へ参詣して一泊、二十二日に森口で一泊、二十三日に着坂し、その後海軍整備を叡覧する予定を伝える。但書で太政官代の移転は一旦止め、道筋は本街道、各々の人数書は烏丸家へ出すとする。続く通知は、明後二十一日の行幸出輦に伴い同朝の天機伺いと参朝を在京諸侯へ命じる。別通は明二十日に伺うよう求め、名代の上京者は禁中仮建で伺うとする。さらに供奉・大坂警衛諸侯は禁中・大宮御所などへ出頭して天機を伺う指示と、大坂着御後は行在所で翌朝から伺い、大坂の重臣も同様に伺う指示を収める。
文和五年正月十三日 / 冊子 885頁
室町幕府の御的始で下御所御的を勤めた供奉人を列記する交名。小笠原氏部少輔、安東平次左衛門尉、物部小次郎、諏訪次郎、小柳左衛門尉らについて、装束の色目と的役を図示する。
文和五年二月十二日 / 冊子 888頁
室町幕府の御的始で供奉した小笠原氏部少輔、安東平次左衛門尉、物部小次郎、諏訪次郎、武田判官、小柳左衛門尉らについて、装束の色目と的役を列記した交名。
年月日未詳 / 冊子 304頁
島津家久譜の記事。慶長十五年十二月十一日、家久の船団が筑前沖を航行中に暴風と高波に遭い、相島へ避難したが、帆柱が折れ、供船が岩礁で大破したことを記す。肝付半十郎ら十余人が溺死し、翌日、家久が龍伯・惟新へ報告した。
(寛永三年)十一月六日 / 冊子 24~25頁
島津家久が中山王へ、両将軍の上洛と行幸の成功、自身の中納言任官を報告する。今帰仁から同行した三人が京都でよく奉公し、行幸も見物できたことを称え、薫香合一つと印籠・巾着を贈る。
年月日未詳 / 冊子 445~446頁
寛永十一年八月中旬、島津家久が国元へ帰還したことと、従駕した家臣に関する記事を記す。
寛永十二年四月三日 / 冊子 476頁
島津家久が召し連れる人数を、乗馬二十騎と替馬十騎、陸の者百二十人、小者・中間・道具の者二百二十人、その他の小者七百九十人、合計千百八十人と記した供勢注文。
寛永十二年四月三日 / 冊子 477頁
江戸にいる島津光久が召し連れる人数を、乗馬二十騎、小姓二十人、陸の者二百人、小者・中間・道具の者百十人、その他の小者八百九十人、合計千二百四十人と記した供勢注文。
2月(申渡、年不記);末注:亥2月15日九州路差立 / 冊子 282~283頁/原整理番号 394/整理ID 394
雑集中。侍長として村田源右衛門・平田五兵衛・大迫新藏・右松十郎太を挙げ、続いて和田孫右衛門・種子島六郎・長崎早太・伊地知宗助を列記する。これらの者を三郎の上京に伴う供奉役に命じ、当分の勤方を申し渡すとする。二月、筑後、注は川上久封。末注は亥二月十五日に九州路へ差し立て、ほかに三重中小姓六十人も一緒に差し越し、伏見で三郎の上京を待ち受けるよう命じたと記す。列記八名と六十人は別に扱い、この日を三郎本人の出発日や伏見到着日として認定しない。
辛未正月18日知政所 / 冊子 786頁/原整理番号 1002の10/整理ID 1002-10
十九日四ツ時に供揃いし、麻袴を着用して中門・矢来御門から出発する。照国神社、鶴嶺神社、龍尾神社、上之原御墓、常安峯、長谷場西御墓を参詣し、北御門・櫻之間・中門を経て帰殿する順路を定める。辛未正月十八日知政所。
明治4年辛未3月知政所 / 冊子 796頁/原整理番号 1017の1/整理ID 1017-1
先般の勅使下向で島津久光が宸翰を拝戴し、病を押して春中に参朝すると請けたが、まだ快復せず秋までの猶予を願った。このため島津忠義が久光に代わり天恩を拝謝するため、来る二十五日に出発して上京する旨を周知する。明治四年辛未三月知政所。
年月日未詳 / 冊子 171頁
越前島津忠綱譜所収。嘉禎四年、将軍家が京都から鎌倉へ戻った際、忠綱が左衛門尉として供奉列に加わったことを記す記事。
宝治元年十二月十九日 / 冊子 197~198頁
藤原義祐が将軍家の御亭への入御に供奉し、列中の所定位置と奉公を勤めることを請け負った請文。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。建長二年正月、将軍家が鶴岡八幡宮へ参詣した際、島津忠綱が左衛門尉として供奉列に加わったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。将軍家の移徙・御出に際し、島津忠綱が供奉人として随行したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 212頁
島津忠時が将軍家の行事に供奉した記事。建長四年六月の複数日に、御格子上下や騎馬供奉などで忠時が所定人数の供奉人に加わったことを記し、供奉者名と配置を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 212頁
島津久経が将軍家の行事に供奉した記事。建長四年六月の弓始め・御母儀三位殿参御などに伴う出御・還御で、久経を含む供奉人の人数と役割を記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
越前島津忠綱の女子二人の婚姻先を小田常陸介・小田筑後守と記し、建長四年五月十四日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、忠綱が三十八人の供奉者に加わり、殿上人に次ぐ直垂帯剣の列にいたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年七月二十三日、将軍家の方違えに際し、御後の騎馬十八人の一人として島津忠綱が供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年八月一日、按察親王家の征夷大将軍任命に伴って予定された鶴岡八幡宮への拝賀が停止されたこと、供奉人として島津忠綱が予定されていたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年十二月十七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣四十人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年三月十三日の将軍家御行始で、島津忠時が布衣四十四人の供奉者に加わったこと、翌十四日の二所参詣でも御後の布衣五十九人に列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年三月十三日の将軍家御行始で、島津忠綱が布衣四十四人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年七月十一日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣五十九人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 220~221頁
建長六年の将軍家行事における島津忠時の供奉記事。正月廿二日の鶴岡八幡宮参詣で御後三十五人に加わったことなど、複数の出御・参詣における忠時の位置と供奉人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 222頁
建長六年七月十六日、鎌倉中の物忿を鎮めるため諸人が群参した折、六十五人の一人として島津忠綱が将軍家に供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 222頁
建長六年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、島津忠綱が将軍家の御後、布衣の供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年正月一日、将軍家への年始出仕で島津忠綱が布衣十二人の供奉者に加わったこと、同年十月五日に年号が康元へ改められたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年正月十一日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣廿九人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年六月十九日の放生会で、島津忠綱が越州任例の供奉人百六十一人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、将軍家の出御に際し、島津忠綱が五位十五人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年六月十九日の越州任例の供奉について、人数百六十一人の中に島津久経が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年六月十九日の放生会で、先例どおり供奉人百六十一人が定められ、島津忠行がその一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年七月十九日の将軍家参宮で、雨天のため布衣供奉となった際、島津忠行が供奉人に加わったことを記す。行列と装束の変更事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 226頁
建長八年八月十七日の将軍家による山内最明寺参詣で、島津久経が供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 226頁
正嘉二年の将軍家行事における島津久経の供奉記事。正月の宴飲、鶴岡八幡宮参詣や放生会などで、供奉人の人数・装束・久経の列次を記す。
年月日未詳 / 冊子 226頁
正嘉二年改元後の幕府行事で、島津久経が相州禅室の御沙汰に従い供奉・宿直に加わったことを記す短い記事。
年月日未詳 / 冊子 227頁
康元二年正月一日の将軍家御行始で、相州禅室への参向に際し、島津忠時が御後の布衣十二人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 227頁
正嘉二年の将軍家行事における島津忠時の供奉記事。正月の宴飲と六月十七日の鶴岡八幡宮放生会で、忠時が供奉人百二十一人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 227~228頁
『島津国史』が、島津道忍公の鎌倉奉仕と幕府行事への供奉を年次別にまとめた記事。正嘉年間の年始行事・鶴岡八幡宮参詣・放生会などについて、供奉人数と道忍公の列次を挙げ、幕府御所での宿直・警固や布衣供奉の実績を伝える。
年月日未詳 / 冊子 229頁
正嘉元年十月一日の大慈寺供養で、将軍家の出御に際し、島津忠綱が御後の布衣十八人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 229頁
正嘉元年十一月一日の大慈寺供養で、曼荼羅供の大阿闍梨を三位僧正頼兼、職衆を二十口とし、将軍家出御の行列で島津忠景が供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 229頁
正嘉二年六月十三日、将軍家が納涼のため相模太郎殿の山内泉亭へ入御した際、島津忠景が御騎馬の供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 230頁
正嘉年間、鶴岡八幡宮参詣の供奉人書上げに島津忠景が漏れていたため、後日四人とともに追記されたこと、番衆結番では忠景が六番の一番三人の一人とされたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 230頁
康元二年正月一日の幕府年始行事以後、将軍家の御行始に関わる島津忠嗣の供奉を記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 230頁
康元二年正月二日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が五位十八人の供奉者に加わったことを記す。