滝聞伝右衛門尉・渡辺市左衛門尉出銀請取状
慶長十五年七月十日 / 冊子 550頁
滝聞伝右衛門尉と渡辺市左衛門尉が連署し、高二百石に対する七分出銀と殿役分を受け取ったことを証する請取状。鳥目四十六貫八百三十三文、銀子二百八十一匁を、定日外のため倍算用とし、七分・殿役とも皆済したことを記す。
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慶長十五年七月十日 / 冊子 550頁
滝聞伝右衛門尉と渡辺市左衛門尉が連署し、高二百石に対する七分出銀と殿役分を受け取ったことを証する請取状。鳥目四十六貫八百三十三文、銀子二百八十一匁を、定日外のため倍算用とし、七分・殿役とも皆済したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 556頁
朝鮮出兵中に死亡した島津家臣について、年月日・姓名・所属や死因の注記を列挙した戦没者記録。 尾崎新兵衛正義、持永右馬允盛政、野々村伝右衛門、伊集院関係者などを挙げ、島津軍の人的損失を個人単位で追える。
年月日未詳 / 冊子 707頁
秀吉の朝鮮渡海命令を受けながら病床にあった島津彰久が、文禄二年五月十一日に渡海し、六月十一日に釜山へ入津、十四日に「コチャハン」、七月三日に「キンムイ」へ在陣した経路を記す。 町田伝右衛門が供奉しており、彰久の病後の出陣時期と朝鮮での移動を日付入りで確認できる家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 360頁
一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
三月廿五日 / 冊子 114頁
前年の国分下馬で起きた衝突を江戸へ報告し、関係者の処分を伝えた連署書状。本田蔵人ら五人は知行・屋敷没収と遠方への追放、下馬始の中間隼人ら三人は死罪とし、市来・左衛門への処置も命じる。
二日 / 冊子 326頁
隠岐守が六日か八日に当地へ来るよう相談していると聞き、その意向を尋ね、来訪すれば満足だと誘った島津家久書状。伊勢鶴らを待っていることも記す。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 182~183頁
永禄十一年正月二十日、義弘が少数の精兵で大口方を誘い出して戦った経過を記す。敵先鋒の別府安芸守らに対し義弘が弓で応戦し、川上久朗も奮戦して重傷を負った。島津軍が退く際、義弘は殿となって追撃兵を繰り返し退け、歳久・伊集院久治らの来援で曽木城へ退却した。貴久は援軍を率い、進まなかった梶原某を追放した。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
(慶長十年)八月七日~九月十六日 / 冊子 28頁
島津常久譜の記事。八月七日、鎌田政近の使者が、朝鮮人の女性を質人として乗せた船が大坂に着岸したと報じた。続いて、常久の座上の壁にいた手飼いの青鷺を大樹の鷹師与右衛門尉が持ち去り、西牟田辺右衛門・税所久右衛門が追跡して負傷させたため、鷹師衆との騒動となり、両名が追放された経緯を記す。八月九日の質人の伏見到着、同月二十一日以降の使節往来も記録する。
寛永十一年三月朔日 / 冊子 413~414頁
月例出仕、未進・出物、武具携帯、殺人事件の切腹・遠流処分、徒党・私的交際の禁止、役人の収賄・私用使役禁止など、家中規律と刑罰を条文形式で定めた覚書。
天正8年3月14日 / 冊子 329頁/原整理番号 126
天正八年三月十四日当時、島津義虎の家老であった市来加賀守家の短い家譜。家の始めを民部太輔とし、忠辰の家老を務めた市来出雲守が薩州宮城で夭折したこと、市来因幡守、浄光明寺門前に住んだ伝右衛門、父と同格を伝えた伝右衛門へ続き、順仙が医術によって士列に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 132~133頁/原整理番号 483
肝付次右衛門家の系図。弥五介に実子がなく、肝付金右衛門尉兼利の嫡男を養子とした由緒を記し、その伝右衛門尉が万治元年九月八日に没し、法名を光徹芳清としたとする。伴九郎弥五介は島津義弘に供奉して朝鮮で戦死した。以下、兼頼・兼広・兼近らの分岐、女子の婚姻、養子、出生・死亡年月日と法名を列記する。
寛永廿一年正月廿一日 / 冊子 441頁/原整理番号 551-2
前件の兵糧不足銀を支給するため、吉田二郎兵衛尉・黒田三左衛門・土持左馬権頭から正月十七日に通知を受けた九名は、市来八左衛門保管の米受取証文が火災で焼失していたため、関係者を三日間集めて出陣日数と人数を照合し、算用した旨を添える。鹿児島への使者は佐濱車右衛門である。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
(寛永十五年)四月廿四日 / 冊子 802頁
中納言登城の際に供奉する歩行衆の人数を尋ね、財部伝右衛門に託した馬具を家老衆から川上五次右衛門へ渡す手配を伝え、伊勢兵部の帰着後に詳しく相談するとした島津光久の書状。