新納為舟忠元書状
五月六日 / 冊子 23~24頁
新納為舟忠元が旅庵老へ、船の出発がようやく進む一方、飯米が不足するおそれがあるため、当面の米・物資を借り受け、後続の船が着くまで取り成すよう頼んだ。別船は六月末ごろの上着が見込まれるとして判断を仰ぎ、国元の事情、武庫(島津義弘)・龍伯(島津義久)への礼、在洛中の作州・休心老らへの応対について伝える。さらに四月二十一日に乗船し、五月二日に大坂へ到着した経過と、旅庵らの尽力への謝意を述べ、今後も吉報を伝えるとした書状。
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五月六日 / 冊子 23~24頁
新納為舟忠元が旅庵老へ、船の出発がようやく進む一方、飯米が不足するおそれがあるため、当面の米・物資を借り受け、後続の船が着くまで取り成すよう頼んだ。別船は六月末ごろの上着が見込まれるとして判断を仰ぎ、国元の事情、武庫(島津義弘)・龍伯(島津義久)への礼、在洛中の作州・休心老らへの応対について伝える。さらに四月二十一日に乗船し、五月二日に大坂へ到着した経過と、旅庵らの尽力への謝意を述べ、今後も吉報を伝えるとした書状。
(慶長元年)九月三日 / 冊子 40~41頁
龍伯(島津義久)が武庫(島津義弘)へ、他見を禁じたうえで、休心・龍登・有方・上甚ら人物の扱いについて内々の見解を述べ、誰を信用して用いるべきか慎重に判断するよう求めた書状。あわせて材木引きが難航していること、三浦へ木引きを命じ、自身はいったん帰って上洛準備をし、成就次第知らせることを伝える。
年月日未詳 / 冊子 449頁
伊集院源次郎が偽りの心を抱き誠実さに欠けたため、山口勘兵衛尉直友による和睦仲介は成立せず、山口は帰京した。税所越前入道休心と市来織部佑家政を海陸の護衛として付け、遠来した山口への謝礼の言葉を託したと記す。
寛永十一年十二月七日 / 冊子 463~465頁
税所某が、親次郎右衛門・休心ら一族の知行二百石・千百石・五百五十石の継承、勘気による召上げと復帰、扶持・銀の貸付、奉公先などの経緯を詳述し、自身への知行・扶持と奉公の取り扱いを児玉筑後守へ嘆願した書状。
(慶長四年)十二月四日 / 冊子 471~472頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、庄内境の諸所を担当する人衆を銘々承知したことを肝要とする。先月二十五日に飛脚が上着し、山口勘兵衛らの下向時に上方の様子を伝えた後は変事がないと報じ、奥方と宰相殿がともに快復したので安心するよう知らせる。庄内から無事の返事は望みにくく、内通を申し出る者も多いであろうから、わずかな行動にも念を入れ、諸境目を緩みなく固めて油断しないよう命じる。
慶長七年四月廿六日 / 冊子 813-814頁
恒吉八幡宮への法楽和歌。首夏風・早苗・村雨・夏月・夕立・旅恋・後朝恋などの題で、島津家臣らが初夏の景物や恋情を詠み連ねる。
(慶長四年)十一月廿四日 / 冊子 467~468頁
島津惟新が又八郎に、相良甚兵衛尉・大脇弥五右衛門尉の無事到着、庄内しわち・野々三谷への着陣としわち城落去の見通しを報じる。寺沢志摩守の浜之市到着、肥後方面の通路遮断、山口勘兵衛尉の再下向と法度・置目の徹底、内府拝領の栗毛を送ったことなどを列挙し、勝利後の処置まで油断しないよう求める。
年月日未詳 / 冊子 811-813頁
恒吉八幡宮への法楽として島津一門・家臣らが詠んだ和歌集。卯の花や夏日などの題をめぐり、龍伯・少将をはじめ多くの詠者が季節の景物と信仰を詠み連ねる。
五月六日 / 冊子 132~133頁
船の出航が遅れているため、兵糧米を借り受けて到着まで取り計らうよう依頼した。また国元の争いで上方へ逃れたところ武庫の判断により途中で討ち果たされた件、在洛中に受けた厚意への謝意を述べ、細島から夫丸五人の助力で入来院へ帰着し、帖佐の家族も無事だと報告した書状。