島津忠平書状
六月七日 / 冊子 108~109頁
伊東家着陣時に白鷺権現へ立てた願を翌月に成就するため、七夕頃から能を催し、『高砂』『落葉』『夕顔』など七番の演目を日置周防介に依頼して準備を求めた書状。
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六月七日 / 冊子 108~109頁
伊東家着陣時に白鷺権現へ立てた願を翌月に成就するため、七夕頃から能を催し、『高砂』『落葉』『夕顔』など七番の演目を日置周防介に依頼して準備を求めた書状。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
目録年月日記載なし / 冊子 466~467頁/原整理番号 113
前記事の年次を手掛かりに悟性寺の開山時期と寺地を考え、伊東家・義天との関係、寺の建立や墓参の記録を検討する。宮内少輔忠鎮の扱いと太守の通行にも触れ、関連書付を差し出す経緯を記す。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 405~406頁/原整理番号 137
天正六年正月の祝儀・土持と伊東の処遇・天草交渉を記す。土持は人質に関する条件を申し入れ、相撲や刀を進上し、伊東方の退治に従う意向を示した。山毛の廻文や大友父子の書状には日州の混乱と伊東の亡命について記される。天草から日州取得と勝利を祝う使僧・贈物が届き、佐土原などの城から来た百人ほどの家臣へ覚悟を求めた。末尾には九月二十九日付の大口忠元の書状の記事があり、相良・大友・肥州、八代真光寺との関係を報告する。
正保三年三月十五日 / 冊子 34~35頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0059
琉球からの返書、伊地知志摩守の下向、伊東家使者への返答、山絵図、琉球船の難風漂着、火災への対応など複数案件を国許家老へ伝えた三名連署書状。
年月日未詳 / 冊子 179~180頁/原整理番号 61
浄楽院に関わる諸系統の系図。満市は満諸院を号し、その十八世に当たる系統は島津忠久に従って薩州へ下り、宝山検校は伊作に住したと記す。十一代常慶院から寿長院へ続き、寿長院は俗姓渕脇氏で日新公に功があった。家村氏の大光院は島津貴久に仕えて功があり、『三ケ国家督』を給わったとする。長倉氏の常徳院は島津家久に仕え、中興開山・三州検校職と記される。幼名仙千代丸、祐次といい、父は伊東家臣で日州穂北城主・長倉大和守祐時の弟、伊賀守祐住。薩州との合戦時に仙千代丸は中務殿の命で助けられ、盲人として家久に仕えた。末尾に長友氏の常楽院―案原氏の大光院、長友氏の明秀院―常楽院の系線を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 206頁/原整理番号 71
伊東清左衛門から伊東休意へ続く短い系図。清左衛門は初めて伊東家へ参じたといい、休意は七条大仏師康厳の弟子となった仏師で、傍注に『子鉄孫鉄』と記される。
寛文10年4月5日(目録) / 冊子 中表紙(無頁)・393~398頁/原整理番号 1
穆佐悟性寺にある義天の御石塔について、島津・伊東家の旧事や日州穆佐の由緒をたどり、石塔の建立地と移転、維持をめぐる証言・旧記を検討する。末尾には寛文十年四月五日付の悟性寺による修補願と、客殿・茶堂・庫裏・門・薬師堂などの破損箇所を挙げた書付を収める。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
天正五年 / 冊子 517頁
天正五年、伊東家臣福永・野村らの内応を受けて島津軍が日向諸城を攻略し、伊東義祐が豊後へ逃れ、日向一円が義久の領土となったことを記す。この報が京都へ届くと、近衛前久が北郷時久へ祝賀の書状を送ったという。
天正五年 / 冊子 526頁
高原地頭上原尚近が、伊東義祐から疑われ子の元服にも面目を失った野尻城預り福永丹波守へ、伊東家の宿運は傾き、島津方へ参るべきだと密かに勧誘した経緯を記す。福永は譜代の主人を離れる葛藤を経て、身の危難と遺恨を晴らすため島津家への帰属を決めた。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊東豊後守に、庄内へ伊東家中から塩などを通用しているとの風聞を、当初は虚説と思ったが国元から重ねて確報されたと問いただす。源二郎と同心して庄内へ物資を通わせるのが事実なら反乱への加担に当たり、伊東のためにも不利益だと警告する。内府が山口勘兵衛尉を派遣して源二郎の出城を求めているので、龍伯・少将と相談し、庄内への支援を止めて解決に尽力するよう求める。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 423頁
旧記雑抄は、本文がNo.841と同文のため省略したと注記する。内容は、伊東家中が庄内へ塩などを通わせ源二郎に加担しているとの確報を示し、事実なら反乱への同意に当たるとして支援を止め、山口勘兵衛尉による出城交渉と龍伯・少将の対応に協力するよう求める書状である。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
正保三年七月十三日 / 冊子 48~49頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0086
島津久慶が土持権助・北郷蔵人へ、庄内を北郷に与えた年号、祁堂院・伊集院・北郷の領有の推移、牛之峠山境争論の発端と元和・寛永期の経緯を問い、都之城での談合や伊東側の伐木、かつての山内分与の指示も確認する。今回の国絵図に伴う伊東家老側の使者と江戸への照会、北郷領有後の牛之峠方面からの異論の有無についても返答を求め、継飛脚で知らせるよう頼む。末尾は七月十三日午下刻。
(寛文元年)閏八月廿九日 / 冊子 443~444頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0955
島津光久が、寛永十一年以来未決着の伊東氏との領分境「牛之峠」をめぐる経緯を整理した覚書。禁裏再建用材として日向領内の槻之河内・板屋之河内の材木を差し出そうとしたところ伊東家が境目裁定を求めたため、境界主張を損なわず公儀の用材命令へ対応する方法と、日向領からの材木召上げ免除の可否について酒井忠清の内意を求めた。
元禄十二年五月二十二日 / 冊子 121頁/整理ID 427
徳川綱吉が元禄10年閏2月4日、島津綱貴に薩摩・大隅・琉球の国絵図と日向一国図を伊東大和守祐実と相談して提出するよう命じた記事。正保国絵図は祖父島津光久が単独で提出しており、伊東家との共同校正は先例に背くとして、綱貴が異議を申し立てた経緯を記す。
六月廿日 / 冊子 727~728頁
世上の雑説は島津・北郷の和議を妨げる者の謀略であり、隔心を抱かず不分明な噂を信用しないよう求める。伊東家中が近く錯乱するとの風聞について境目の実情を知らせ、重要な時節なので改めて使者を通じ談合したいとした島津貴久書状。
正月21日 / 冊子 769頁/原整理番号 824
松平主税・伊東大和守が富岡の番であるため黄門から書状を届け、久国も伊東家老へ連絡したと伝える。宛先の五名を物頭として派遣し、用向きを伝えるよう命じたという。黄門は今朝大量に吐血して容体が悪く、必要な連絡は出水の市来八左衛門を介するよう求める。万一の場合も軍衆を引き揚げず奉公するという黄門の意向を重ねて伝える。
慶長4年8月6日 / 冊子 569頁/原整理番号 71
島津惟新(義弘)が伊東豊後守へ、下向後に何度も書状を出したこと、上方は無事であることを伝え、国元と庄内の様子を問う書状草案。伊東の家中から庄内へ魚・塩などを送っているとの風聞に加え、庄内からの落人が多数いてその噂は事実だとの知らせが国元から届くため、事実なら一揆への同意と受け取られかねず伊東のためにもよくないと警告する。さらに、石田治部少輔から庄内へ下った使者が伊東家中の者のように通行し、源二郎も同心したとの情報を挙げ、内府様が事情を確かめるため山口勘兵衛尉を遣わしたと述べる。惟新は、これまで伊東と親しく相談してきたからこそ風聞を告げるとして、私的な通交も含め庄内との連絡を避け、在国の竜伯・少将と相談するよう求める。慶長4年8月6日付。欄外には『旧記雑録後編三』841号と同一文書かとの推定注記がある。
目録年月日記載なし / 冊子 407頁/原整理番号 3
「山田聖栄自記」から、修理亮が穆佐を受け取り、池尻・白糸・細江城をめぐって所領や役務を願い出た経緯を抄出する。伊東家との縁と兄弟間の不和にも触れ、穆佐城の支配の変化をたどる材料とする。
建久8年6月(日付記載なし、目録) / 冊子 414~415頁/原整理番号 1
穆佐への内用出張後に差し出した届書と記録方から示された勘考箇条の相違を、旧記・系譜と照らして逐条検討する。加江田城攻撃と久豊の没年、義天の墓所と悟性寺の石塔、穆佐における伊東家の支配期間を論じる。「日向国園田帳」の穆佐院三百町ほかの所領記載も引き、建久八年時点の島津荘地頭所と伊東氏の所領関係を考える。
目録年月日記載なし / 冊子 452頁/原整理番号 97
文明十三年六月二十八日の文言を引いて始まり、島津家の守護継承や立久・忠国の時代、伊東家との関係を旧記・系図と照合する。穆佐・佐土原・清武・門川など日向諸地の知行と戦闘、祐堯や義天に関する伝承を挙げ、史料の異同や後世の書写にも触れる。
目録年月日記載なし / 冊子 463頁/原整理番号 110
「伊東系図祐國妹」と題し、島津忠昌の母を伊東祐國の妹・梶原氏の娘とする諸系図の記述を比べる。忠昌の寛正四年五月三日生誕や立久と伊東家の縁組、新納家との関係を挙げ、系図の異同を検討する。
天保12年8月25日(目録) / 冊子 469~473頁/原整理番号 118
悟性寺修補をめぐる訴訟と、寺内の石塔・埋葬地の由緒を古記録、系図、現地の遺構に照らして調べる。石塔の銘、遺骨の扱い、久豊・忠国以来の寺領や社寺の修補、伊東家との関係を検討し、異同が多い点を整理して意見を述べる。天保十二年八月二十五日付で御記録方掛相良甚太夫が御側御用人へ報告する。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 43
伊東家と二十余年争っていた島津家に、将軍義輝が和談の仲介として伊勢備後守貞運を下向させたことを記す。貞運は末吉で大中に接見し、新納忠元・樺山幸久・肝付弾正忠兼實が命を受けて応答したという。
巻二/冊子 25~26頁
日向平定の過程を、高原・野尻・戸崎・石城の攻略を軸に記す。高原城は霧島山東麓にあり、伊東勢が島津領へ侵入する拠点となっていた。義久・忠平らは天正四年に攻撃し、軽率に城へ迫った兵に損害を出したものの、念仏寺を介した講和で城を受け取る。高崎・三山・須木など周辺八か所も島津方へ属した。伊東家中では義祐の暴政に不満が高まり、野尻・戸崎も次々と落ち、義祐は従う者を失って豊後へ逃れた。記事は伊東滅亡を義祐自身の失政の結果と論評する。翌年、長倉氏が石城に拠って旧領回復を図ると、忠棟らが大河に浮橋を設け、鉄砲・矢で包囲した。城内が糧食・水を断たれて降伏すると、島津方は城兵を餓死させず、食料を与えて豊後へ退去させた。軍事攻略と降伏者への処置を通じて日向支配が確立したことを示す。