新納久无譜
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
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年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 633-634頁
同十五日の西軍配置を記し、南宮山から伊吹山麓まで白旗・赤旗が連なり、総勢十一万八千六百八十騎とする。六十余州を二分する未曽有の合戦として、その軍容を周の武王の牧野の戦いや呉越の戦いにも勝ると形容する。
年月日未詳 / 冊子 657頁
同日夕方、退路を知る者がなく進路を評議した。伊吹山へ入る案に対し、伊勢平左衛門らは落人が山へ向かうことは敵も予想するとして、かえって海道を進む案を示した。島津義弘(惟新)は道筋を進み、危難に遭っても運命の尽きる時だと覚悟を述べ、海道退却を選んだ。
年月日未詳 / 冊子 657-658頁
案内人が見つからない折、萩の中から現れて南へ歩く狐と、畑から南へ飛ぶ鳩を、源氏の氏神が帰国路を示した徴と受け止め、三度拝して道案内を祈った。南へ進むと、白髪・白髭で大小の刀と鉈を帯びた在所の男に会い、身分を隠して紀伊国の者と称し、伊吹山下の道を聞いた。妻子を先へ遣ったとして同行を断られると、刀を抜き、案内すれば礼をするが拒めば命を取ると迫った。男が承諾すると大小の刀を取り上げ、島津義弘(惟新)の前へ連れて行った。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 691-698頁
関ヶ原前日の布陣から本戦、島津義弘(惟新)の敵中突破と伊勢路への退却を、黒木左近兵衛・平山九郎左衛門らの証言で整理する。島津豊久(中務大輔)・山田有栄・木脇休作らの戦闘、伊吹山方面での義弘との合流、殿軍の交替、住吉・堺での潜伏と出船、大坂の夫人方の救出、豊後沖での船団被害、十月三日の帰着までを詳述する。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:文祿四年乙未九月三日 記事内参照年紀:慶長五年庚子 記事内参照年紀:五月廿五日 記事内参照年紀:七月十四日 記事内参照年紀:同年九月十五日 記事内参照年紀:自十月朔日至拾一月六日共三十六箇日 記事内参照年紀:慶長七年正月十五日 / 冊子 199~200頁/整理ID TMP-P02-CONT-A75
文祿四年九月三日の先領七ヶ所返地、吉利村田數三千二百、在判目録に関する叙述を置く。本田下野入道三清・伊集院右衛門大夫入道幸侃の名があり、授受の細部は留保する。 慶長五年の伏見宅地警衛、五月廿五日の吉利出発、七月十四日の大阪到着、三成と家康卿との隙を記す。伏見城攻撃の先登戦功と、惟新君が川上久右衛門に伝えさせる感言に言及する。 同年九月十五日の濃州関之原合戦で関西軍が敗散し、重張が惟新君を離れ、喜入攝津守・新納族庵・本田助〔丞カ〕父子等と伊吹山へ退去したとする。頼實僧を含む四人、海津・江州小松への移動、寄宿拒否、穴居と捕縛・大阪への移送を述べる。省略主語・人数句の指示は留保する。 山岡修理亮殿、頼實の僧體・獄舍に係る句、重張の免除をめぐる訴えを記す。収監操作の主体と直接引用範囲は未確定。十月朔日から十一月六日まで三十六箇日の獄舍滞在、原免、泉州堺・藝州廣島への移動、文識房の学問・越年、慶長七年正月十五日の帰郷を述べる。学問の主語は重張へ補わない。