吉利氏系図抄(二)
年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
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年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
天明四年閏正月十日 / 冊子 728~729頁/原整理番号 2055/整理ID 2055
妙心院の中陰法事を閏正月八日・九日に福昌寺で執行したと報告する。八日は島津図書が代参し、九日の施餓鬼は島津又六郎久良、同日の満散に伴う半斎の代参と寄合の名代は島津玄蕃が務めた。明姫・嶺松院・千萬からの香奠を寺へ納め、一門・大身分・女中方・久起らの献納物も納めた。法事中は鹿児島中へ慎みを申し渡した。妙心院の病気見舞いに遣わされていた大野休之丞には、死去後の法事節の代香を命じ、前日に生花二筒・大香三把を位牌前へ供えさせ、法事中は寺へ詰めさせた。天明四年閏正月十日、島津大進久起から島津左中久金へ宛てた書状。
寛政7年11月6日(初詣)・12月(騎射伝授。本文) / 冊子 98頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0320
斉宣公御譜に、虎寿丸の初詣と斉宣の騎射法伝授を続けて記す記事。寛政7年乙卯11月6日、虎寿丸が福筒迫諏訪神社へ初めて詣でたとし、虎寿丸に島津斉興の人物注がある。別段落は斉宣が家伝の犬追物の技芸のほか、小笠原平兵衛から小笠原流騎射・打毬などを学び、鹿府城南中村別荘の騎射場でしばしば講じたと記す。同年12月、一族の島津出雲久良がその法の伝授を請い、斉宣が授けたという。島津久明家に騎射巻一冊があるとの所在注を伴う。二つの用件・時期を分け、次の斉興公御譜の初詣記事とも出典を区別する。
十月十五日(配列上、寛政元年) / 冊子 1050頁/原整理番号 2824/整理ID 2824
斉宣の家督相続後の初入部に際し、幕府から駅券を賜ったため、島津出雲久良を江戸へ遣わし、十月十五日に登城して献上し、拝領の恩を謝したと記す。同日、重豪も留守居の橋口与三次兼甫を老中・若年寄の邸へ遣わし、礼を述べさせた。
天明三年正月十一日~天明四年三月十五日(記事中の経過) / 冊子 737~738頁/原整理番号 2080/整理ID 2080
前年癸卯の正月十一日に南林寺で火災が起き、客殿まで焼けた。来訪中の蒲生郷士大脇孫六と住持泰禅は島津貴久(大中公)の影像を持ち出し、火災後は福昌寺に移した。その年七月二十六日に南林寺の再建工事を始め、翌春三月十日に落成した。十五日に影像を福昌寺から南林寺へ戻し、重豪は島津又六郎久良を、虎寿丸は大島休左衛門久章を大中公廟への参拝に遣わした。
九月三日・十月六日・十五日・十九日(配列上、寛政元年) / 冊子 1049・1050頁/原整理番号 2823/整理ID 2823
家督相続後、初めて国元へ入った斉宣が、幕府から伝馬の使用を認める駅券を賜った礼として、一族の島津出雲久良を江戸へ派遣した記事。久良は九月三日に鹿児島を発ち、十月六日に江戸着、十五日に登城して家斉へ一種一荷を献じ、斉宣の拝領への礼を述べた。久良自身も初対面の礼として太刀一腰・馬一匹・馬代銀一枚・紗綾二巻を献上した。十九日に幕府から縮緬二巻・紗綾一巻を賜り、帰国を許された。
弘安七年三月廿二日 / 冊子 316~317頁
平氏女が三郎へ相馬久良崎の所領等を譲る仮名書き譲状。二郎左衛門尉へ譲った分との関係を記し、譲り状どおり知行させ、親族の妨げなく将来も相伝するよう定める。