島津久守証状
承応三年十二月二十日 / 冊子 754頁
平山家が季久の二男忠康から近久・久丘・忠績へ女子相続を交えて正統に続くことを確認し、島津門族記録編纂に際して久正弟の座に定め、古譜を改め新譜を子孫へ伝えるよう命じた島津久守証状。
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承応三年十二月二十日 / 冊子 754頁
平山家が季久の二男忠康から近久・久丘・忠績へ女子相続を交えて正統に続くことを確認し、島津門族記録編纂に際して久正弟の座に定め、古譜を改め新譜を子孫へ伝えるよう命じた島津久守証状。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
年月日未詳 / 冊子 29頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0044
豊州家豊前守久守譜中の記事。久賀の命により、対馬守久清の出自、朝鮮渡海から関ヶ原までの義弘への奉公、右馬頭久武の戦死後に久清を後継とした経緯を述べる。島津氏の支流ではなく平山を称する者も多く、姓氏の同異を知る者は少ないとして、その疑義を裁定した左近将監久守の証書と久清の記を掲げる。
正保二年十一月二日 / 冊子 29~30頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0045
島津久守が平山対馬入道へ出した正保二年十一月二日の証状。季久以下、忠康が平山を号した家系と、五代右馬頭久武が永禄二年四月十八日に日向松山城で戦死し、久次らも肝付方に殺され無嗣となった経緯を記す。義弘が松本主殿助に平山を継がせたこと、久賀が由来を問わせたことを述べ、現在平山を称していても忠康の子孫ではないとして、諱字と平山の称号を妄りに許すことはできないと証明する。
享保六年十一月十五日 / 冊子 496~497頁/整理ID 1329
義岡久守が彌勒院の大僧都慧英へ、吉貴と夫人による寺院再興に関わり、涅槃書像一幅を寄附し永く守護するよう伝える。
五月廿六日 / 冊子 14頁/原整理番号 5
島津久守と樺山久盈が蒲生の曖衆中に、狩代・雑石代の未進について、上使賄方と御旅代官付衆の帳面の写しをもとに首尾を報告するよう繰り返し命じたが、まだ済んでいないと指摘する。これ以上督促を重ねずに済むよう、厳しく申し渡して早急に報告させる五月二十六日付書状である。
享保八年五月三日 / 冊子 615頁/整理ID 1548
彌勒院再興に伴う不断護摩の執行費用について、銀の取り置きと年ごとの受渡し、護摩継続を伝える。
享保九年八月三日 / 冊子 665頁/整理ID 1682
加紫久利大明神の社頭に寄せる掛物一幅を箱に納めて届け、受納と保管を求める副状。
正保三年六月六日 / 冊子 45頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0079
島津光久が六月に薩摩西津へ着き、同月六日に鹿児島城へ帰着して島津左近久守へ謝礼を述べた記事。
元禄十年四月二日 / 冊子 14–15頁/整理ID 42
種子島久時・島津久當・島津久守・島津久洪が川崎祐身ら三名に、日向国絵図の件を早々に知らせてくれた礼を述べた連署書状。薩摩守の道中から、参府後に詳しく承り合わせて返答するとの連絡があったため、それまで返事が遅れることを断り、先に礼を伝える。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
元禄十年四月四日 / 冊子 15–16頁/整理ID 45
国絵図作製に伴う評定所での留守居召出し、絵図・郷帳の借用や差出し、紛失時の手続、改様の扱いについて、先例と担当者間の相調を示した返答の覚。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁/原整理番号 175
師久の次子久安から始め、始良・碇山を称した家の系譜を記す。久安の領地と碇山城への居住、忠安以下の官途、忠親の隅州生別府での戦死、久次の後を継いだ忠種の実家木脇氏を載せる。忠種に男子がないため児玉筑後守利昌の三男を迎えて始良氏を嗣がせたこと、父子の久賀隊への所属、忠種の死を記す。久包は実家喜入氏と母仁禮氏の系譜、出生、小姓奉公、納戸奉行・御近習役と領地頭職、綱久の病を看護した功による褒賞を記し、碇山姓を再び称した経緯と妻子へ続く。
万治二年四月十三日 / 冊子 281~282頁/原整理番号 49
永山村の市右衛門が萩原甚右衛門の名子の母の一向宗本尊を預かった件について、前の利銀は母方に科し、今回は預け主にも科銀を命じたと報告する。
正保五年正月 / 冊子 113頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0195
台徳院秀忠の十七年忌が増上寺で営まれ、国許にいた島津光久が家臣島津久守を江戸へ名代として派遣し、香奠を供えた記事。