吉利氏系図抄(二)
年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
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年月日未詳 / 冊子 558頁
吉利忠張の子女から久在・久良・忠名・久遠・忠真らへ続く家系を、生没年、母方、幼名・官途、養子相続とともに記した吉利氏系図抄。久在に男子がなく、義岡久達の長子久良が姉婿として家を継いだ経緯を載せる。
年月日未詳 / 冊子 299~300頁/原整理番号 131
『応永記』が、久世と頼久の協議、高城の大勢による攻撃と物取りへの批判、久世が領状を与えて伊集院側の意向を容れたことを記す。匠作は伊地知氏を使者として碇山へ送り、久世は匠作に市来方を攻めてもらう考えを伝えた。申木野や天辰子監寺で本田安久らを交えた相談があり、匠作は市来の宮園に陣し、平等寺への移動を求めたが久世は応じなかった。計略に気付いた匠作は鹿児島へ使者を送り自領内の備えを固め、山北との相談を経て久世が河辺を受け取り、忠朝は隈城へ帰ったという。
宝永六年仲夏二十一日 / 冊子 859頁/整理ID 2815
近衛家熙が仲夏二十一日、薩摩少将吉貴へ、暑中の清健を喜び、左幕下〈家久〉が在府中無事で、吉貴の館に招かれて丁寧な饗応を受けたことを喜ぶ。早い知らせに礼を述べる。
記事成立日:未確認 / 冊子 196頁/整理ID TMP-P02-CONT-A67
島津勝久が在判する書があるとして「記左」と掲げ、後続の文書を導入する。
三月廿八日 / 冊子 522頁
島津武久(忠昌)の加冠について、文明十七年三月二十八日付で武久が判を据えた加冠状。
文政元年12月16日 / 冊子 541~543頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1640
従四位下源朝臣斉興を従四位上に叙する位記。兵欄・羽衛に勤め、精誠に懈りなく昼夜公に奉じたことを称え、位階を進め寵章を用いるとして、担当者に施行を命じる。文政元年十二月十六日、朱印の表示を伴う。三品行中務卿紹仁親王宣、正四位下行中務大輔藤原朝臣師光奉、従四位下行中務少輔藤原朝臣維長行。公修以下、権大納言・権中納言などの官職と名を列記し、制書の内容を奉じて外へ施行する旨が続く。従五位上行大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師徳、右中辨光成を掲げ、関白・左大臣・右大臣・内大臣は名の空欄を残し、太政大臣は闕とする。二品行兵部卿貞敬親王、兵部大輔兼淡路守良久、右大辨在経、兵部少輔兼遠江守利根の官職・名を記し、斉興に制書を告げて符の到来後に奉行する書式へ続く。末尾にも同日付、朱印の枠図表示、大録・少録・少録の欄、右一通を採録する。「月日辰時」という未記入欄や空白の官職名欄を補わず、転写された印の表示と現物の押印を区別する。
元治元年正月(天皇賞)/2月(幕府賞)/去歳7月戦闘への言及 / 冊子 327頁/原整理番号 461/整理ID 461
島津氏家譜。元治元年正月、天皇が軍功を賞して御馬一匹を賜り、前年七月の英国船来航時の対応と神州の威武を称える勅を下したと記す。茂久は在国していたが旨を伝えて賞し、家臣の尽力にも判金十枚を賜ったとする。実父久光・茂久の二代で恩を受けたと述べ、二月には幕府が大小二刀を賜り藩屏の任を尽くした労を賞したと記す。三種の賞と月を分け、称賛は家譜の叙述として整理する。
年月日未詳 / 冊子 298~299頁/原整理番号 129
元久譜が、元久の在洛中、渋谷一族は久世・忠朝とともに碇山に集まり、鋒之尾や稲荷原・浮橋・樋緑川付近に陣したと記す。元久は病気で鹿児島に帰ったが、山西・大隅・南方の三千余騎を山北へ催し、敵も中郷の宮里通路を守って陣を往来しにくくした。北郷氏の精兵五百は誠方松山に陣して瀬野原へ伏兵を出し、市来・伊集院の五百ほどの兵も松瀬口に陣したという。
年月日未詳 / 冊子 246頁
島津元久譜が、元久在京中に渋谷四か所衆が清敷を背いたこと、応永十八年に元久が鋒尾へ出兵したものの発病して鹿児島へ戻り、山西・大隅・南方の兵三千余騎を山北へ向けたことを記す記事。
(元亀二年)六月十一日 / 冊子 245~246頁
細川藤孝が喜入季久の帰国後、二度書状を送ったが届いたかを尋ね、京都は現在平穏だと知らせた書状。季久在洛中は多忙のため疎遠になったことを今も残念がり、今後こちらで用事があれば隔意なく申し付けるよう求め、十一日韻の懐紙を贈る。
(寛永元年)正月廿九日 / 冊子 805頁
生島季盛が島津家久へ、皇子誕生の祝賀書状を八条宮の御前で披露し、懇切な祝意に八条宮が満足したと伝えた。また前年の家久在洛中にたびたび対面できたことも喜んでいると報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 404頁
家久在府中、児玉利昌が始良(姶良)の地頭職と給米三十石を受けたこと、納殿役として近侍し現地へ赴けないため、三十二歳の子利実を遣わし、児玉吉兵衛らと支配に当たらせたことを記す児玉利昌譜の記事。
延宝8年正月朔日~12日 / 冊子 188頁/原整理番号 108
島津綱久在国中の御関狩は風雨を問わず毎年行われたとし、延宝8年正月朔日から12日までの天候、登城、春山初御狩の触れ、近方・外城衆の罷立を記す覚書。
記事成立日:未確認 / 冊子 546頁/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-A014
泰行譜中の記事として、外祖父行久が泰行慈母へ所領を譲ったことを記す。 相模国大井庄内吉田嶋・薩摩国阿多郡北方・鎌倉の西御門入奥地を挙げる。 鎌倉宿所の倉納物と鎌倉内濱倉の半分地も挙げ、以来当家の領地となったと記す。 行久在判の譲状二通の正文を家蔵し、左に記すと述べる。
極月2日(元久在判、年未詳) / 冊子 513~516頁/原整理番号 26-1
島津元久が田代殿へ、総国の大将軍として探題方へ馳せ参じるよう先日命じたのに辞退するのは分別がないと叱り、家格・人物・分限のいずれにも支障はないので早々に出立せよ、阿積谷殿を副将軍とすると命じた極月2日付書状。後半には田代氏の後続系譜を収め、元久代に河辺で36歳にて討死した人物と法名浄久、その子清玄以下、清久への田代六町分の譲与と元久判、清定の渡海、清光・立清らを記す。至清は忠昌代に加治木で36歳にて討死し、清千は勝久代に帖佐で47歳にて討死、丈清も勝久代に加治木で28歳にて討死したとする。清宣は豊久へ奉公を始め、清辰・清秀・清長・清良・清豊・清金・清房らへ続き、各人の通称・官途・生没年・法名・母方を付すほか、断絶した清安流を上田家が継いだこと、清次を田代伊右衛門の祖とすること、末尾では一人が吉川家の養子となったことを記す。