北郷久嘉使者として参府
年月日未詳 / 冊子 886頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2394
北郷久嘉が島津綱貴の命で翌年年頭の使者として江戸へ赴き、到着後に幕府老中らの屋敷を訪ねたことを記す記事。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
39 件 (全巻)/ 1–39件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 886頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2394
北郷久嘉が島津綱貴の命で翌年年頭の使者として江戸へ赴き、到着後に幕府老中らの屋敷を訪ねたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 888頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2399
北郷久嘉が島津綱貴の年頭使者として登城し、大久保忠朝を通じて太刀・馬代を献上して白銀一枚を拝領したこと、のち高輪邸でも島津光久へ太刀・銀馬代などを献上したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 939頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2567
元禄八年十月十一日、北郷久嘉が鹿児島の屋敷へ島津吉貴を招いて盛膳を献じ、佐多久達が相伴を務めたこと、吉貴が金子五百疋を与え、久嘉の家臣・役人・用人らが御目見したことを記す記事。
元禄十年二月六日~四月五日 / 冊子 2頁/整理ID 5
北郷久嘉譜の記事。島津綱貴が江戸へ参勤する際、番頭の久嘉が元禄十年二月六日に鹿児島を先発し、四月五日に江戸へ到着したと記す。北郷吉兵衛忠養が同行した。
元禄十年八月九日~十一月二日 / 冊子 38頁/整理ID 112
北郷久嘉の譜に、八月九日に大書院で本堂普請成就の褒美を受け、喜入安房を介して労いの口上を伝えられ、時服六を拝領したと記す。十一日には東叡山御堂の槌打規式にも勤仕した。九月五日に久嘉が普請成就を祝って綱貴へ樽肴を献じ、同日吉貴も樽肴を献じた。久嘉は九月十一日に江都を発ち、十一月二日に鹿府へ帰着する。樽肴の献上先を明示し、これを将軍への献上や馬代に読み替えない。
元禄十二年十二月二十七日 / 冊子 182–183頁/整理ID 649
光久の息女徳鶴が北郷久嘉に嫁ぎ、元禄十二年十二月二十七日に婚礼が規式どおり行われたとする記事。同日久嘉は登城し、新納久珍の案内で三献の土器・盃や腰物を拝領した。別日の同月晦日、久嘉が綱貴を自邸に招き盛膳を供し、二種一荷を賜る一方、久嘉から備前利恒腰刀・太刀一腰・銀馬代を献上し、記載の家臣らが公顔を拝した。
元禄十二年十二月晦日 / 冊子 183頁/整理ID 651
島津綱貴が北郷久嘉の邸へ赴いた際、綱貴が北郷久度に金子五百疋を与え、久度も金子三百疋を献じて謝意を示したことを、北郷宗次郎久度の譜中から記す記事。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 276頁/整理ID 922
北郷久嘉が島津綱貴の命を受け、薩摩府を出発して江戸へ赴き、芝御屋敷で番頭を勤めた記事。大嶺勝兵衛安明が随行した。
元禄十四年十一月十五日 / 冊子 333頁/整理ID 1099
北郷久嘉の妻が平産したため、島津綱貴が久嘉邸へ赴き、妻へ品物を与えた記事。久嘉は当時江戸におり、新納市正久珍が綱貴に供奉した。
元禄十五年五月三日~五月二十七日 / 冊子 361頁/整理ID 1208
綱貴の命で北郷久嘉が五月三日に京都へ着き、近衛前関白基熙・右大臣家熙・大納言家久に拝謁して太刀一腰・銀馬代を献上した。久嘉がこの時賜った品物の録は別に記すという。同日、中院内府通茂にも拝謁し、五月二十七日に鹿府へ帰った。叙述記事のため宛先欄を空欄とし、拝謁対象は人物・概要欄で記録する。
九月廿一日 / 冊子 739頁/整理ID 2489
北郷久嘉略譜の記事。宝永四年九月廿一日、太守吉貴の高命により久嘉が家老座へ召されたと記し、続いて種子島蔵人久時と大目付役補任を述べる。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
寺山氏三代久兼の子女から久豊・久堅・忠昌を経て、養子久任・久長・久繁・久年・用長へ続く系統を記す。忠昌が佐多忠充の三男として養子に入り、坊津・姶良の地頭を務めたことなどを載せる。
享保八年七月朔日 / 冊子 620頁/整理ID 1561
国分の小嶋・両嶋の御用廻りの諸木と彌勒院の薪山について、預け置きと差配を認める。
享保七年三月六日 / 冊子 527頁/整理ID 1362
享保七年三月六日、北郷作左衛門久嘉・伊集院蔵人久矩・嶋津内記久貫が戸田平次へ、高二百石の知行を与える目録。伊集院・始良・真幸吉田・蒲生・加世田・串木野の各内と記し、名寄帳は別冊とする。京都に差し置かれ高二百石の所務を与えていたところ、今回は地方で下すので全うに所務せよと命じる。
年月日未詳 / 冊子 718頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1876
綱久公御譜中の系譜図に、綱久の妹徳鶴を掲げる。徳鶴は天和三年十月十六日誕生、母は家の女房で、家臣北郷作左衛門久嘉の後室となる。
元禄十年七月朔日~元禄十一年七月二十一日 / 冊子 34頁/整理ID 101
北郷久嘉の譜に、元禄十年七月朔日、綱貴が東叡山本堂造営の手伝を命じられたと記す。八月三日の御鍬初では禰寝丹波清雄が総奉行、久嘉が番頭として勤仕し、鍬初後に門主の広間で饗応を賜る。翌十一年七月二十一日の普請成就時には、清雄・島津大蔵久明・久嘉が御門主へ太刀一腰・銀馬代を進上して各々謝礼を述べ、饗応を賜った。
元禄十四年四月二十六日 / 冊子 297頁/整理ID 979
島津綱貴の息女亀姫の縁組が定まり、近衛大納言家久が進藤刑部大輔長之を結納の使者として江戸へ下したことを記す記事。この時、家久が北郷久嘉へ時服3襲を与えたことも記録する。
年月日未詳 / 冊子 380頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0836
島津綱久が万治二年四月十八日に将軍家綱から帰国の許可と先例どおりの恩賜を受け、登城して御馬も賜り、同月二十九日に江戸を発ち六月十五日に鹿児島へ着いた後、使者を江戸へ送り帰国の恩遇を謝した記事。
享保三年七月三日 / 冊子 350~352頁/整理ID 931
七月三日、比志嶋範房・種子嶋久基・北郷久嘉・嶋津久當が南泉院僧正智周へ、高五百石の知行目録を交付する。薩摩国鹿児島郡下伊敷村の萩原・福地・米蔵三門と、大隅国始羅郡増田村一円の門別高・浮免を列記して合高五百石とする。東照宮再興・南泉院修造に際し宝永七年四月六日に寄附した知行のうち下伊敷分を据え置き、支障のある平松村分を改め、以前の判物による増田村一円へ替える。今後南泉院領分の村役は福昌寺領分と同様に免許し、勘定奉行に周知する。
享保八年四月十六日 / 冊子 612~613頁/整理ID 1542
四月十六日、種子嶋久基・北郷久嘉・島津久貫の三名が、正八幡宮別当彌勒院法印へ、国分宮内の彌勒院を吉貴が再興して常法花の読誦を命じたことに基づき、高三十石を買い入れて寄附すると伝える。帖佐・興御代官の支配で、当年から所務のあるなしにかかわらず飯米十一石九斗四升を年々渡し、怠慢なく如法に勤行するよう命じる。
元禄十年六月晦日~八月十六日 / 冊子 31頁/整理ID 94
島津綱貴が六月晦日に老中から東叡山寛永寺本堂造営の助役を命じられ、七月朔日に登城し、島津久明らを役方へ配置したのち、同月二十二日に本堂造営を始め、八月二日には小屋掛けなどに着手した経緯を記す記事。
享保三年七月廿六日 / 冊子 352~353頁/整理ID 935
吉祥院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353頁/整理ID 936
実相院に寄附された高百石の知行地として、薩摩州大口・市来、隅州帖佐・始良・山田の地名を記し、今度の替地を示す五名連署の目録。七月二十六日付。
享保三年七月廿六日 / 冊子 353~354頁/整理ID 937
七月二十六日付、観樹院宛の高百石知行目録。薩州大口・串木野、隅州帖佐・始良・山田の地を掲げ、名寄帳は別冊とする。東照宮再興・南泉院修造と観樹院・實相院・吉祥院建立の際、各院へ年俸として廩米三十石を支給していたが、今回の願いにより替地高百石を新たに寄附し、すべて寺納とする。五名が連署する。
享保六年五月九日 / 冊子 466頁/整理ID 1248
嶋津備前忠清らに宛て、伊集院・日當山・川内高城などにわたる高五拾斛の知行を認める連署目録。
享保六年五月九日 / 冊子 466頁/整理ID 1249
義岡右京に宛て、伊集院・日當山・川内高城などにわたる高五拾石の知行を認める連署目録。
享保六年六月九日 / 冊子 472頁/整理ID 1265
貸田政右衛門に宛て、蒲生・末吉・出水にわたる高百石の知行を認める連署目録。
享保六年八月三日 / 冊子 488~489頁/整理ID 1308
家老四名が豊見城王子へ、大清の冊封使が渡来し琉球国王が王位に就いたことを踏まえ、北谷勤方首尾よく整ったので帰帆した旨を伝える。
享保七年七月廿八日 / 冊子 562~566頁/整理ID 1436
小十文字御太刀をはじめ島津家伝来の太刀・腰物を列挙し、拝領・献上・制作の由緒や備前長光・貞宗などの刀工、伝来先を記す。
享保七年七月廿八日 / 冊子 567頁/整理ID 1437
家久の江戸参府時に後水尾院から拝領した二管と、別の火災で焼失した一管について、後代の由緒伝承を記す。
享保七年七月廿八日 / 冊子 569~570頁/整理ID 1439
享保七年七月二十八日、家老五名が物頭へ、家伝重物六条の由緒と保管を申し渡す。忠久の鎧一領、元久と伊久の家督時の役太刀・鎧のやり取りを記し、元久を立てた家臣らが家を守った規式も述べる。旗二流は時雨と八幡大菩薩の文字、白旗を源家の吉例として貴久以来用いる旨、義弘の手鑓一本は加久藤木崎原合戦の使用、一本杉馬験は朝鮮で義弘が作り泗川一戦で初めて用いた旨を記す。頼朝伝承の八幡大菩薩旗と義久の旗も挙げ、先祖からの重物を譲り物として万般疎略なく保管するよう求める。
享保七年七月廿八日 / 冊子 570~571頁/整理ID 1440
七月二十八日、家老五名が物頭へ、家伝の小泉兜と鎧類の四箇条を記す。文禄四年、義弘への領国朱印状・目録を朝鮮へ送り帰国を命じた秀吉が、伏見で平野肩衝茶入と小泉兜を与えたこと、慶長三年十月朔日の泗川合戦で義弘がこの兜を初めて着用したことを伝える。日新の召料鎧一領、義久の召料鎧二領、家久が泗川で敵七人を手討ちした際に着た鎧一領も挙げる。元禄九年四月の火災で札が混じり不分明となり、形は残るが重物の閲覧に備える状態ではないため目録から除き、後世に由緒を失わないよう書き残す。
享保七年七月廿八日 / 冊子 575~576頁/整理ID 1443
七月二十八日、家老五名が厩別当へ馬具重物六箇条を通知する。寛永三年八月十九日の家久昇進時に後水尾院から賜った鞍・鐙は、梨子地蝶高蒔絵・紫大形綱・虎皮泥障等を伴う。義久の吉例の紋猿金具鞍、義弘から家久へ伝えた黒塗紋金具の鞍・鐙、義弘秘蔵の鑓、貞久が将軍尊氏から賜ったと伝える菊紋・梨地桐地紋の鞍・鐙を記す。天正十五年七月、義久不快の際に秀吉の医師派遣への礼を聚楽第で述べ、鞍置馬と長刀を拝領したことを記し、亀甲高蒔絵金具・四方手添の鞍・鐙はその時の拝領とする。最後二箇条を新たな譲物に加え、家伝重物として疎略なく保管するよう求める。
享保七年七月廿八日 / 冊子 577頁/整理ID 1445
七月二十八日、家老五名が書院方へ、平野肩衝茶入一箇と八景釜一口の由緒と保管を通知する。文禄四年の義弘領国給付の朱印状・目録を朝鮮へ送り、帰国を命じた秀吉が伏見で茶入と小泉兜を与えたこと、寛永七年四月に家光・秀忠が桜田邸へ来た時に数寄屋の飾りに用いたことを記す。八景釜は頼朝から忠久が拝領したと伝え、寛永七年四月の家光・秀忠来訪時に鎖の間へ掛けた由緒を挙げる。新譲物に加え家伝重物として格護するよう命じる。
享保八年四月十六日 / 冊子 612頁/整理ID 1541
吉田宮之浦村と郡山村のうち高二十五石の土地を挙げ、花尾権現再興に伴う寄附知行として示す。
享保八年五月三日 / 冊子 615頁/整理ID 1549
彌勒院の不断護摩料として銀を表方へ預け、利銀を年ごとに受け渡す手順と、後年の納入額を定める。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 57~59頁/原整理番号 23
伊地知季安は、相良甚太夫の御文書奉行・平田清右衛門に関する説明を受け、旧来の御文書奉行の候補者と職掌を検討する。また平田が歴代の記録編纂に着手した時期を考え、寛永初年とする説には疑問を示し、正保二年着手という平田家の伝えを重視する。幕府が諸家の系図提出を命じた時期や川上久国の書状を手掛かりに、島津家の系図作成・提出の経過を追うが、推測を含むことも明示する。
享保七年十二月廿五日 / 冊子 602頁/整理ID 1515
十二月二十五日、名越恒渡・種子嶋久基・北郷久嘉・嶋津久兵・嶋津久貫の五名が高野山蓮金院へ、同寺は嶋津家の宿坊として中納言家久の代に興隆し寺領を寄附されているので、今回少将継豊も先判どおり寄附すると伝える。祈祷、先祖の日牌、寺中修造を怠慢なく執行するよう命じる。
享保八年九月九日 / 冊子 627~628頁/整理ID 1582
九月九日、種子嶋久基・北郷久嘉・伊集院久矩・嶋津久武が北谷王子・三司官へ示す進貢使派遣の覚。琉球から大清への進貢は往古からの勤めなので先例を守り、在番奉行所で人数・船頭水主・宗門を調べ、武具の持渡しや法度違反を防ぐよう命じる。通常の渡唐金高の範囲で、大清の白糸・巻物等を買い薩州へ送り京都で売って使節費に充てることは許すが、定額外の増金は禁じる。毒薬・大禁の書籍の買入れを禁じ、帰帆時期、頭取・船頭の吟味、出帆後の遭難漂着時には相手に船の国籍・出発地日時と漂着経緯等を説明し、飯米・船の修理等も適切に交渉するよう定める。