新納久利書状
二月廿三日 / 冊子 125頁
新納久利が山田安藝に、先日の使者と狩物に関する知らせへの対応を述べ、近日の出仕・会合や兵衆の手配について相談した書状。急用があれば中野方を通じて知らせるよう求める。
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二月廿三日 / 冊子 125頁
新納久利が山田安藝に、先日の使者と狩物に関する知らせへの対応を述べ、近日の出仕・会合や兵衆の手配について相談した書状。急用があれば中野方を通じて知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 795頁
天文十年六月、北郷次郎右衛門久利が高城での伊東・北原両軍との戦いに参加し、戦死したことを記す。日付は十六日または二十六日との異説を併記する。
七月廿三日 / 冊子 486~487頁
島津光久が暇を得て無事に国元へ到着したことを祝し、使者佐多久利を通じて羅紗十間と樽肴を献上したことを披露したところ、使者が将軍の御前へ召し出され、入念な対応を喜ばれた旨を伝えた三名連署書状。
八月廿七日 / 冊子 487頁
帰国の使者佐多久利が進上物を持参するため、翌二十八日四時以前に登城するよう申し渡すことを留守居へ命じた稲葉正則の達書。
年月日未詳 / 冊子 714頁
川上氏十代久隅以後の家督相続を記す系図。長男久利には家督を譲らず、二男久通の子久貞を後継に定め、久貞の母へ自筆書状を与えた経緯を載せる。目録では独立書状ではなく系図抄(二)として掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 866頁
曽於郡の領有と守備、本田董親の島津貴久への背反、清水城降伏後に忠相領内へ移った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
年月日未詳 / 冊子 794~795頁
北原氏と伊東氏が高城攻略を企てたため、北郷忠相方が勝岡・梶山・山之口へ軍を展開した合戦記事。北郷久利ら諸将の配置、城兵の反撃、敵勢との突撃戦、双方の討死者を記し、高城を守るため複数の口・城を連動させた防衛戦と軍功を詳述する。
元禄十年九月十六日 / 冊子 44頁/整理ID 132
島津久利が島津中務の家臣らに、薩摩守の上野普請手伝と先日の御前能を祝い、松平修理大夫の勇健を喜んだ。夏中は自家の病人のため留守中の見舞いを果たせなかったことを詫び、その旨を取り次ぐよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 429頁/原整理番号 178
肥後合志の合戦で伊集院下野守のもとへ大津源左衛門尉が襲いかかった際、越中久利が源左衛門と弟六右衛門を討ち取ったと記す。武蔵守と圖書頭から書状を受け、新たな覚悟を立てたため、関係する記録を書き留める旨を述べる。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁
本田氏の領する曽於郡の土卒が本田方に背き北郷方へ応じたため、北郷忠相が大永六年五月二十日に兵を進め、新納氏も加わって城を落とし、曽於郡を領有した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 708頁
本田方が郡城を奪回しようと攻めたため北郷忠相が援兵を送り、城兵とともに撃退したこと、その後の西城・屏涯などの攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 679~690頁
樺山資春流の系図。資春が島津忠昌の肝付攻めで砥坂陣の大将を命じられ、島津忠国から資の字を賜ったこと、昌久・久任以下の諸流、谷山伊佐知佐松原での戦死、婚姻・寺院住持・生没年を多数記す。
享保九年閏四月十一日 / 冊子 656頁/整理ID 1660
加紫久利大明神社の社頭に関し、社領を寄附することを示す寄附状。
享保九年閏四月十一日 / 冊子 656~657頁/整理ID 1661
加紫久利大明神社頭の再興と社領寄附の経緯を述べ、祈祷精勤を求める連署状。
享保九年閏四月十一日 / 冊子 657頁/整理ID 1662
加紫久利大明神社領寄附に伴う知行目録で、社頭再興と寄附を確認する。
年月日未詳 / 冊子 103頁
北郷久加が島津光久の江戸参勤に供奉し、北郷次郎兵衛久利と祭主與左衛門重政も従ったが、勤仕中に長野金山の件によって帰国したことを記す譜記事。
慶安四年十月十五日 / 冊子 204~205頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0401
綱久公譜中の久達の誕生・系譜記事。系図では綱久と久達を兄弟として示す。初名貞朝、虎三郎・市右衛門・内記・備後・豊前の呼称を挙げ、慶安四年十月十五日誕生、母は家の女房と記す。初め伊勢兵庫貞輝の養嗣となり、寛文十二年春に伊勢氏を去って家臣佐多丹波久利の後嗣となり、久達と改めた。
享保五年正月 / 冊子 429頁/整理ID 1125
種子島久基が、出水の賀志久利大明神を従来の薩州の宗廟から今後は薩州の総社と称するよう申し渡す文書。
享保九年八月三日 / 冊子 665頁/整理ID 1682
加紫久利大明神の社頭に寄せる掛物一幅を箱に納めて届け、受納と保管を求める副状。
元禄十一年正月二十七日 / 冊子 56–57頁/整理ID 183
島津久洪ら十名が松平修理大夫へ、前年の国絵図命令に伴い椎葉山分を江戸で書写し、相手方の控えと照合して絵図を作成する件を報じた連署書状。使者新宮市左衛門の口達を承り、絵図をいったん受け取り、すぐ答えにくい事項は江戸の薩摩守へ照会して後日返答すると伝える。
八月十二日 / 冊子 429~430頁/原整理番号 178-1
合志の合戦で伊集院下野守が大勢に攻められた際、久利が敵を追い払い、大津兄弟を討ち取って下野守の命を救った働きを褒める。褒美は別紙で与えるとし、新納武蔵守と圖書頭が連署して伊集院新介へ送った八月十二日の書状。
年月日未詳 / 冊子 551頁/整理ID 1891
吉貴の家督継統を領国の神霊と歴世の祖廟へ報告する代参・奉納記事。宝永元年十二月二十二日に薩府五社、浄光明寺の当家五代霊牌、興国寺・妙谷寺・隆盛院・南林寺・皇徳寺などへ白銀を、本立寺へ青銅三百疋を奉納する。翌年正月には正八幡宮・霧島山・津友寺、薩州八幡新田宮・加世田志久利大明神、妙円寺・龍雲寺・称名寺・即心院・日州住吉大明神・日新寺、枚聞宮・加久藤の宮、満家院花尾権現宮への奉納を記す。
〈寛延三年〉十月二日~十日 / 冊子 286頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0821
前年に江戸で襲封・元服した重年が、薩府から諸使を遣わし、十月二日に東照宮の大雄山寶前へ太刀一腰・白銀四枚を奉献した記事。麑府五社の正一位諏訪・正一位稲荷・祇園・若宮八幡宮・春日と福岡淀縄方神社には白銀一枚ずつ、満家院花尾権現社には白銀六枚を納めた。太刀・白銀については、襲封の礼に前年の元服の礼も兼ねた旨の注を伴う。四日は曽於郡霧島権現・末吉住吉及び徳神社・加久藤二之宮・頴娃枚聞・出水加紫久利、六日は国分正八幡宮・志布志即心院・加世田日新寺、七日は水引新田八幡宮・隈之城釈名寺、八日は吉田津友寺・谷山皇徳寺、九日は市来龍雲寺、十日は伊集院妙圓寺へ、それぞれ白銀一枚を献納した。元注は島津周防忠紀の代行と勅幣使の役、入来院石見定敦・島津小平太久金・肝付弾正兼昌ら諸使を記す。
宝暦九年(日付不記・記事) / 冊子 729~730頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2211
重豪公御譜は、前年の江戸での襲封を受け、七月四日に薩府から幣使を出し、大雄山東照宮へ御太刀一腰・馬代銀二枚を献納したと記す。同日、鹿府の諏方・祇園・若宮八幡・春日と福箇迫諏方へ各白銀一枚、滿家院花尾権現へ白銀五枚を献納する。二十三日には出水郷加志久利・霧島権現・末吉郷住吉と憶神社・加久藤郷二之宮・頴娃郷枚聞へ、それぞれ白銀一枚を献納する。二十五日には国分郷正八幡、二十六日には水引郷新田八幡へ、白銀各一枚を献納する。
宝暦十四年(記事中は正月~五月二十二日) / 冊子 1頁/原整理番号 1/整理ID 1
宝暦十四年の重豪の公辺動静を月日順に記す。正月元日に五社を参詣して受賀し、二・三日にも規式と外朝での受賀を行い、二十七日には慈照夫人が登営して将軍家治・御臺・儲君・萬壽君らへ旦を賀した。重豪は秋に琉球人を伴って江戸へ朝参する予定だったが、自身に寒疾があるため春の暖かい時期に先発することを願い、閣老の許可を得た。琉球人は家臣とともに秋に来朝する計画とする。二月十三日の御鷹の鶴拝領と島津玄蕃の江戸謝恩、十五日の外朝、谷山での放鷹、西田館・山下築地への訪問、三月九日の華尾廟参詣、二十二日の府城出発と出水・嘉志久利を経る行程、四月二十四日の大坂到着と二十七日の伏見到着、五月十三日の芝邸到着を記す。五月二十二日には慈昭夫人・悟姫君が御休息所を訪れ、岡元可助に瑤琴の演奏を命じた。