伊集院久信書状
(天正15年)5月24日 / 冊子 336~337頁
伊集院久信が三名からの問い合わせに答え、豊臣秀吉が必ず大口へ進軍すると見込まれる状況を報じた書状。五月二十一日に宮城を攻めたが堅固なため津留田へ退き、近く秀吉が大口へ向かうと伝える。自分の内意として、ここで弓箭を構えて上方の大軍に抗するのは甚だ不利で迷惑を招くとして、抵抗回避を勧めている。
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(天正15年)5月24日 / 冊子 336~337頁
伊集院久信が三名からの問い合わせに答え、豊臣秀吉が必ず大口へ進軍すると見込まれる状況を報じた書状。五月二十一日に宮城を攻めたが堅固なため津留田へ退き、近く秀吉が大口へ向かうと伝える。自分の内意として、ここで弓箭を構えて上方の大軍に抗するのは甚だ不利で迷惑を招くとして、抵抗回避を勧めている。
年月日未詳 / 冊子 419頁
「きのさこ」の畠地について、一反以上の坪付を示し、川田権対馬守へ宛てた久信署判の土地関係文書。 地名・面積・受給者を簡潔に記したもので、知行地の所在と配分を具体的に確認できる。
七月七日 / 冊子 550頁
伊集院元巣久信が、文禄四年十一月に伊作地頭職を命じられ、慶長五年まで四年間、公儀から選任されて御宝物の虫干しを自ら勤めたこと、慶長五年に伊作へ移ったことを、後日の証拠として書き残した申状。
慶長五年十二月 / 冊子 720-721頁
伊集院久信(元巣)が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)への忠節を誓い、高麗出陣時に義弘への申告をめぐって壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定する。親子・親類・他人を問わず逆心や不正を知れば言上し、隠蔽しないことも誓約する。
慶長六年二月廿六日 / 冊子 750頁
伊集院抱節久信と山田理安有信が、薩摩・大隅国内の知行地と浮免を合計六十石、安楽大炊助へ加増として配分した連署目録。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津久信譜の記事。慶長十五年四月に祖父島津以久が伏見で没し、将軍家から忠仍へ遺領が与えられたが、龍伯の病気と忠仍の母の高齢を理由に辞退し、本宗家への帰属を願ったこと、以久の三男尭舜房忠興が佐土原へ置かれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日、伊東勢が飫肥新山城を大軍で攻め、北郷忠孝・久信、知覧忠幸らが戦死し、士卒にも多数の死者が出たことを記す。
天正二年正月三日 / 冊子 328~329頁
天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。
天正二年正月三日 / 冊子 329~330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾に陣取ろうとしたため、島津忠長が疲労した敵を討つ好機として軍中を励まし、自ら後詰めを約した。川上久信も同様に指揮し、島津勢が敵軍を敗走させ茶園尾を占領した。
天正十年十一月十二日~十二月二十五日 / 冊子 722~724頁
龍造寺隆信に圧迫された有馬鎮貴・田尻鑑種への救援と、甲斐宗運との和平交渉を日次で記す長文記事。川上久信らを有馬へ渡海させ、千々石城・日比良城を攻める一方、宗運には人質、隈部攻撃、龍造寺との断交を条件として提示した。田尻城の偵察、熊本・八代での軍議、各戦場の首級・負傷者、兵糧事情を詳述し、長期戦を避けて帰陣するまでを記す。
天正十年十一月十九日~十二月二十一日 / 冊子 724~725頁
天正十年十一月から十二月の有馬・田尻救援と甲斐宗運和平交渉をまとめた義弘譜中記事。川上久信を大将に有馬へ渡海し、田尻城の敵陣を偵察させ、宗運には一族の人質と隈部攻撃を求める。千々石城・日比良城を攻略したが龍造寺勢の兵糧と勢力が強く、遠征軍の補給も難しいため一時帰陣した。
年月日未詳 / 冊子 1頁
島津忠将一流系図のうち久信の項。久信は守右衛門尉彰久の子で、初名を忠仍といい、又四郎・相模守を称した。天正13年に生まれ、母は太守島津義久の第二女であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 277頁
天正十五年正月二十六日、島津義弘が球珠郡野上城へ陣を移し、周辺諸城の多くを降伏させた記事。なお抵抗する城に川上久信・町田久倍・新納忠元らを向け、外郭と二の丸を破り、五日後に本丸を陥落させた。続いて北里・小国方面も降伏したが、二月には羽柴秀吉の大軍接近が記され、豊後・肥後戦線が攻勢から対豊臣防衛へ転じる局面を示す。
(慶長五年頃) / 冊子 730頁
伊集院久信(元巣)が島津義久(龍伯)・義弘・忠恒への忠節を誓い、高麗出陣時に壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定した起請文。本箇所はNo.1416と同文のため本文が省略される。
年月日未詳 / 冊子 516頁
山田氏九代忠尚・忠豊らの親子関係、官途、母方を西谷讃岐守久信の娘とする出自などを記した山田氏系譜。
年月日未詳 / 冊子 520頁
伊集院久族が伊集院肥前守久信の長子として生まれ、寛永五年に忠能から家督と系図を譲られたことを記す。実子がなかったため島津家当主の子を継子に迎える手続きと、門族への告知文書へ続く伊集院氏系譜。
年月日未詳 / 冊子 591~600頁
新納時久の長男久有を祖とする支流系図。久信・時俊・久堅・忠城らの官途・婚姻を記し、志布志落城時の出奔、松山城主忠城父子が荘内中郷涼水で戦死したことなどを載せる。
年月日未詳 / 冊子 612~615頁
新納忠親の二男信久を祖とする支流系図。久雪が妻方の縁で肝付氏を称して溝辺に住み、久林が肝付兼寛に仕え溝辺地頭となったこと、久信が喜入へ移住したこと、久宥以下の養子・婚姻・生没年を記す。
年月日未詳 / 冊子 744~745頁
島津忠勝一流の系図。右馬頭以久の子彰久・久信・久敏以下、島津家久の娘を母とする忠清、島津光久の諸子忠顕・久侶・久雄・久治らが北郷家などへ養子相続した経緯を記す。
慶長六年三月吉日 / 冊子 753頁
天下の下知に基づき、領地の減少があっても国家安全を祈るため、大隅国曽於郡山之路村内の四十石を大明寺の祭礼・修造料として支配させた寺領支配状。
慶長六年六月吉日 / 冊子 754頁
伊集院抱節・山田理安連署の知行目録。本文は旧記雑録後編3のNo.1518と同文であるため、本箇所では省略されている。
慶長六年三月廿六日 / 冊子 754頁
伊集院抱節と山田理安が、大隅国桑原郡西光村内の蘭屋敷十三石六斗三升五合と見次村内六石三斗六升五合、合計二十石を配分した連署知行目録。
慶長六年三月廿二日 / 冊子 754-755頁
伊集院抱節と山田理安が、日向国財部・松山・志布志などの知行を合計六百石、児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。
慶長六年五月廿一日 / 冊子 755頁
伊集院抱節と山田理安が、河原村・見次村などの複数の土地を児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。各地の石高・浮免を列記する。
年月日未詳 / 冊子 913-914頁
島津忠輿譜は、祖父島津忠興の家系と佐土原領有の由緒を記す。島津以久が慶長六年に佐土原城番を命じられ、同八年に徳川家康から佐土原三万石を拝領したのち、嫡子彰久の没後に忠興へ家督を譲った経緯を述べる。
五月廿一日 / 冊子 744頁
安島までの書状の内容を確認し、壺の件を承知したので使者に事情を尋ねるよう伝える。塵の皿十五枚を贈られたことを喜び、詳しくは追って述べるとした石田三成書状。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日の飫肥新山城合戦を詳述する。伊東勢の猛攻で北郷忠相の二男忠孝と三郎右衛門久信らが討死し、三月の久慶戦死に続き忠相が子を失った悲哀と、多数の将兵の戦死を記す。
年月日未詳 / 冊子 760~761頁
喜入忠道の後嗣久正を祖とする支流系図。川上久光の長男久正が忠道家を継ぎ、島津義久隠居時に家老となり財部・国府地頭を務めたこと、久洪・久憲・久信以下の御使役・用人・地頭職と養子関係を記す。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 247
米良備前入道に、隅州曽於郡下財部村内の西大河原之門ほか合計六十石を加増として配分した知行目録。伊集院抱節久信と山田理安有信が連署する。慶長八年十一月廿八日付。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正十年十一月四日~十二月二十五日 / 冊子 730~745頁
天正十年十一月四日に宮崎を発して八代へ向かった上井覚兼が、道中、着陣後の連日の軍議・使節往来・酒宴を詳細に記した日記。肥後国内の経略、有馬への渡海、田尻城救援、甲斐宗運との和平と人質、隈部攻撃、日比良城攻略、諸城の番衆・兵船・補給、各将の配置を協議し、三船・隈荘の誓約や年末の帰陣方針に至るまでを日次で載せる。
慶長六年三月廿二日・五月廿一日 / 冊子 754頁
児玉氏譜は、伊集院忠真の所領没収後、児玉主水佑が慶長六年三月二十二日に日向国財部・松山・志布志などで六百石を加増され、五月二十一日にも河原・見次村などへ知行替えを受けた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 112頁
島津光久譜の記事。光久の妹婿で島津相模久信の二男にあたる島津大和久章が、光久の使者として江戸へ赴いた帰途、五月朔日に京都三条へ着いたのち十七日に逐電して行方不明となったことを記す。家臣らの捜索では見つからなかったが、七月十日に紀州高野山蓮金院へ隠れていたことが判明し、大坂留守居へ通報され、のち薩摩の福昌寺に禁錮され、子らの遠島や関係者の処罰に至ったとしている。
享保十一年十二月 / 冊子 93頁/原整理番号 50
享保十一年十二月の系譜記事。龍伯の娘で新城と呼ばれた女性を島津久信の母とし、その子大和守久章が新城の遺領を継いだが谷山で誅されて所領を召し上げられたと記す。光久の代には久章の子又助忠清へ遺領が与えられ、新城家が再興された経緯を記す。
元和二年~正保二年十二月十一日 / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0050
忠将一流系図から島津久章の父母・兄弟、元和二年の出生、祖母の遺跡相続を記し、正保二年十二月十一日の遠流命と谷山清泉寺での刃傷・誅戮に至る経緯を載せる系譜抄。
元文五年十二月四日 / 冊子 19~21頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の13)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月四日、島津但馬守の源姓使用願を受け、林大学頭による姓の照会に備えて家系と復姓の先例を調べた覚書。島津本家は元祖忠久が源姓で、近衛基通との関係から藤原姓を用い、光久が寛永八年の初叙任時から源姓へ復した経緯を挙げる。佐土原家は豊久の死後、以久への所領授与、忠仍の辞退、忠興の継承を経ており、本家から分立した二男家として藤原姓を用いてきたと論じる。本家の復姓を新たな勅命による改姓とは区別し、但馬守家も同じ源姓へ復してよいと考えつつ、口宣・系図・霊屋や石燈籠の銘を吟味し、源姓を命じられることに支障があるかは林家へ確認すべきだと述べる。
年月日未詳 / 冊子 203~206頁/原整理番号 69
孝元天皇を起点に武内宿禰・応神天皇・醍醐天皇を掲げ、紀道元・紀友則・紀貫之、紀古佐美らを経て紀姓宮里氏へつなぐ系図。正信は紀四郎太郎として初めて宮里郷を領し『御公事足六十町』、正家は紀太夫・郡司で宮里を号し『御公事足四十町』と記す。正氏・正行・正有ら郡司の系を掲げ、正有を足利尊氏将軍の時代と注記する。正継は若狭守、賀正は彦九郎・左衛門尉・前讃岐守とし、その代に宮里が没落したと記す。十一代正実、十二代正真(高江小太夫)、十三代正春、十五代正海以下を世代表示し、蓮秀院主・禅王坊・安養寺実相院・権大僧都などの寺院・僧職、道門房・道祐房・道円房・道光房等の房号、赤坂・堀切・嶋田などの名字を伴う多数の分流を展開する。後段では正宗の代にも宮里没落を記し、正直は日州飫肥で伊東与守方との合戦に討死したとする。正国は宮里播磨守を号して入来院家臣となり、女子の入来院本村殿への婚姻、正家・宗悟・性盛らの後裔までを収める。
慶長十六年三月廿七日 / 冊子 329~331頁
慶長十六年三月二十七日、島津忠が島津家久への忠誠を誓った起請文。以前から別心がなく、他国からの勧誘や陰謀にも応じないと誓い、違背時には天照大神・八幡・諸神仏などの罰を受けると列挙する。
慶長十六年五月十日 / 冊子 336頁
慶長十六年五月十日付の伊集院元巣知行目録。宮原村・下田村などの田畠、高、分量を列記し、合計米・大豆・石高を示して伊集院肥前入道元巣の知行を確認する。
慶長十七年六月十六日 / 冊子 362~364頁
慶長十七年六月十六日、島津忠仍と母菊袈裟が、国分御上様に関する親子の進退・内談を漏らさず、養子や家督などの約束に背かないことを諸神仏に誓った連署起請文。
天正九年八月 / 冊子 676頁
天正九年八月の肥後水俣城攻めについて、城郭・島津軍の陣地・攻撃方向などを示した攻城図。『新編島津氏世録正統系図義久信』に基づく図と注記する。