喜入久供外八名連署起請文
慶長十二年六月吉日 / 冊子 121~122頁
慶長十二年六月吉日、喜入久供ほか八名が別府舎人佑・高崎弥六に提出した連署起請文。弓箭の伝授を受けたことを身に余ることとしてありがたく受け止め、相弟子であっても重位の秘事を他言せず、日夜油断なく弓の修練に励み、指南者の中に別心の者がいれば知り次第言上することを誓う。違反時には、梵天・帝釈・四大天王以下、日本六十余州の神祇や新田八幡・開聞・霧島・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
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慶長十二年六月吉日 / 冊子 121~122頁
慶長十二年六月吉日、喜入久供ほか八名が別府舎人佑・高崎弥六に提出した連署起請文。弓箭の伝授を受けたことを身に余ることとしてありがたく受け止め、相弟子であっても重位の秘事を他言せず、日夜油断なく弓の修練に励み、指南者の中に別心の者がいれば知り次第言上することを誓う。違反時には、梵天・帝釈・四大天王以下、日本六十余州の神祇や新田八幡・開聞・霧島・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
(寛永十一年)五月五日 / 冊子 421~422頁
喜入久供・三原重鏡が国元家老衆へ、阿部豊後守が上使として家久に暇を伝え、白銀千枚と袷・単衣百領を下賜したことを報告し、近日の上京予定を知らせた連署書状。
承応二年十二月吉日 / 冊子 103-104頁
喜入久供が正八幡宮御宝前へ、国武銘の刀一振と脇指一振を奉納した寄進状。武運長久・子孫繁昌・領内安全・敬愛を祈願し、承応二年十二月吉日付で寄進の趣旨を明記する。
寛永十二年四月三日 / 冊子 476頁
島津家久が召し連れる人数を、乗馬二十騎と替馬十騎、陸の者百二十人、小者・中間・道具の者二百二十人、その他の小者七百九十人、合計千百八十人と記した供勢注文。
寛永十二年四月三日 / 冊子 477頁
江戸にいる島津光久が召し連れる人数を、乗馬二十騎、小姓二十人、陸の者二百人、小者・中間・道具の者百十人、その他の小者八百九十人、合計千二百四十人と記した供勢注文。
年月日未詳 / 冊子 675~676頁
元和三年の大風で倒壊した日向国真幸院飯野村長善寺の客殿について、領主から日七十貫の助銭を受け、元和四年二月に着工して十一月十五日に再建を終えた経緯と関係者を記す棟札。
寛永12年4月3日 / 冊子 41頁/原整理番号 44
松平大隅守(島津家久)の供勢。乗馬二十騎、小姓十人、陸の者百三十人、小者・中間・道具の者二百三十人、又小者七百九十人を挙げ、都合千百八十人とする。替えの乗馬十騎は外数。寛永十二年四月三日付。
寛永12年4月3日 / 冊子 41頁/原整理番号 45
松平薩摩守(島津光久)が在江戸で召し連れる人数。乗馬二十騎、小姓二十人、陸の者二百人、小者・中間・道具の者百十人、又小者八百九十人で、都合千二百四十人。前の大隅守分千百八十人と合わせ、二口合計二千四百二十人と記す。寛永十二年亥四月三日付。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 86
公方の御成や歩行・騎馬時に島津義久が従える供の人数、配置、装束、武具を定めた行列覚。公方御成時の走衆を六人とし、小者・中間・雑色らの配置、太刀・小太刀・長刀・弓・傘袋・替馬などの担当、袴・肩衣の着用、徒歩と騎馬、近所と遠路による構成の違いを記す。騎馬時は狭い道で左方を先行させ、小太刀持ちの中間を馬前に置き、替馬は遠路の場合に用意し、洛中では引添えを付けないとする。義久の花押があり、別紙注は天正四年から二十年の間の写しとし、天正十五年の太閤入後、義久が上洛時の供行列を聞き合わせて記した可能性を示す。
寛保三年五月 / 冊子 735~736頁/整理ID 1896
種子島時成は、御記録奉行に対し島津家の系図・系譜へ載せる人物と順序を指示した。姫君の母方では清閑寺家の官位と実名を記し、於喜代は養女となった年限だけでなく実際の出生順と養女の格式を考慮して記載する。佐土原家へ縁組した島津久茂・久供の娘については、養女関係や後年の居住先に応じ、系図と御譜への記載範囲を分けるよう命じた。