殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
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年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
安永二年三月四日(墨正文、年は朱) / 冊子 357~358頁/原整理番号 1003/整理ID 1003
小松帯刀・山岡斎宮から五名へ送った三ヶ条の書状。御守殿の借地千五百五十坪余を直接太守の「御拝借地」としたいと、浄岸院が以前から別紙のとおり願っていたところ、去る十五日の月次登城の際、用番松平右近将監に用事があり、出仕後に居残るよう大目付萩原主水正・目付柘植三蔵から知らされた。白書院の縁頬で、右近将監が書付によって願いのとおりの指図を伝えたので御礼を申し上げ、そのまま西丸へ登城した。月次の祝儀には及ばず、拝領地の礼を奏者へ述べ、老中を廻勤、若年寄には番頭を使者として礼を伝え、側衆には表方の知らせ等を手配した。これに関連して、太守・御前から公方・大納言へ内証の御勤を済ませ、拝領地の引渡しのため去る十七日に普請奉行久松筑前守の下奉行・付役等が出向き、滞りなく引渡しを終えたので使者による挨拶もした。第二条は、拝領当日に太守・御前へ出る者は祝儀を申し上げ、役人は家老へ謁し、諸士は御帳に記して祝儀を申し上げること、その他の祝詞を相談して首尾よく扱うことを述べる。第三条は享保十四年の添屋敷拝領に際して京都・大坂の役場や長崎へ知らせた筋書が残るものの、今度はその通知に及ばず、隣国への知らせは相談することを述べる。屋敷拝領を喜ぶ旨を伝え、女中へ申し上げるよう求め、別紙の写しを添えて送ると結ぶ。末尾は三月四日、小松帯刀・山岡斎宮の連署で、朱に安永二年。
天保九年十二月五日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 39の2/整理ID 39-2
島津斉興が宰相に任じられた登城の経過を記す首尾書。十二月五日朝五時早めに供が揃い、服紗小袖を着て登城し、大廊下下の部屋で待った。留守居半田嘉藤次が御坊主組頭を介して目付佐々木三蔵へ到着を知らせ、目付大津主馬が寄せを申し上げた後、小笠原相模守の案内で御座之間へ通った。徳川家慶に目見して宰相任官の上意を受け、請礼を述べて退出し、黒鷺杉戸際で大老井伊掃部頭・老中の列座する所へ進み、用番太田備後守から次の書付を渡されたと記す。記録者は目録により碇山久徳とされる。
宝暦六年六月十四日 / 冊子 623~624頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1844
高橋縫殿が六月十四日、義岡相馬・伊集院織部へ、十一日の国目付二使の城内見分と招請が滞りなく済んだと報告する。当日九時過ぎに中段の塗籠・御庭を巡って定めた席次で着座し、物頭詰所の一番・二番・三番の蔵、櫓門と兵具を見分した後、唐門の階中程から高欄口の張出へ退出したと伝える。用人二人も十四日に城内を見分し、二使から隅州の安否を尋ねる口上を受けて伝達・返答したこと、備中・周防宅への使者と月番家老への挨拶、国目付・役人の祝儀と家老の対面、大目付以上の下屋敷参上、太守への書状による祝儀を知らせる。継豊への伝達を依頼し、国元の祝儀について相談を求め、次第書二通と御盃被下の名書一通、献立一通を添える。