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HP-1710巻3:50公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

本田親貞

異名・検索語:本田親貞/本田助之丞親貞/助之丞/元親/忠心院明巌清円居士

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

DESCRIPTION

本文内容説明

本田親貞は助之丞と称し、脇元豊前清元の子。本田親歳の子・治部が事情により島津義久の命で追放されたため、親歳の養子となった。諸所で軍功があり、とくに関ヶ原後の和睦使者を務め、二百石を加増された。唐船奉行にも任じられた。『覚兼日記』天正十年十二月条の肥後八代在陣中の記録にも名が見える。慶長十三年九月二十九日に四十六歳で没。法名は忠心院明巌清円居士で、帖佐総禅寺が併記される。追放された治部の具体的な事情、親貞の個々の合戦での働き、出生地・没地は本文に記さない。

系譜・人物関係

脇元豊前清元の子。本田親歳の子治部が子細有之として義久の命で追放されたため、親貞を養子とする。本文の親歳が第1列末の親と第2列頭の歳に分かれる点を確認し、前見出しの本田弾正忠親歳とも照合した。治部は親貞自身の子ではない。治部の諱と追放理由は明記しない。見出し脇の元親との注記を保持する。

奉公・役職

関ケ原以後御和平之御使を務め、二百石加増。唐船奉行に就く。加増年、唐船奉行の就任年、和睦交渉の相手や経路は本文に明記しない。

軍役・事績

於諸所軍功と記すが個別の合戦名・功績は列挙しない。覚兼日記の天正十年十二月、肥後八代在陣中に本田某と行之とする引用がある。同行者表記の弥に続く数字字形は未確定のため公開文に実名を補わず、同日記に名が見えるとの範囲に留める。日記本文を別途未読のまま具体的な行先・交渉内容を追加しない。

生没・法名等

慶長十三年九月二十九日卒、四十六歳。法名忠心院明巌清円居士。法名の後に帖佐総禅寺の小字がある。寺名は確認できるが没地・墓所とは明記されず、それらと断定しない。生年は年齢から逆算せず、生地・没地は不記とする。

統合人物ID
HP-1710
原人物ID群
03-050-05
氏・分類
本田
掲載巻頁
巻3:50
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
脇元豊前清元の子。本田親歳の子治部が子細有之として義久の命で追放されたため、親貞を養子とする。本文の親歳が第1列末の親と第2列頭の歳に分かれる点を確認し、前見出しの本田弾正忠親歳とも照合した。治部は親貞自身の子ではない。治部の諱と追放理由は明記しない。見出し脇の元親との注記を保持する。
検索キーワード
本田親貞/助之丞/元親/脇元豊前清元/本田親歳/治部追放/義久命/養子/諸所軍功/関ヶ原/和平使者/二百石加増/唐船奉行/覚兼日記/天正十年十二月/肥後八代/慶長十三年九月二十九日/四十六歳/忠心院明巌清円居士/帖佐総禅寺
公開区分
公開可
精読・確認状況
従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
公開判定根拠
従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
説明作成区分
AI用PDF全頁精読
本文境界判定
旧AI全1頁を400dpiで視読、原冊50頁・第1分冊62頁と照合。見出し右の小字が一部切れていたため幅を拡げて復元し、上部の過大余白を整理。通常PDFと画像化AI用PDFを各1頁で再作成し全2頁を視認。先頭の本田助之丞親貞から末尾の覚兼日記引用までを保持。前の本田弾正忠親歳と後の本田勝吉親明の独立記事は含めない。治部・清元・同行者は本文の関連人物で新規採番なし。
判読保留
養父名は親歳と確定し従来の養家当主名保留を解除。右端の清常清半権之介と読める小字の区切り・字形、覚兼日記引用の同行者名は公開用異名や実名に無理に追加しない。元親との注記を保持。治部の諱や追放理由、和睦交渉の具体内容、没地は不記。帖佐総禅寺を没地・墓所と断定しない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』