HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
北郷忠能
異名・検索語:北郷忠能/長千代丸/二郎/讃岐守/二厳院殿剛嶽常金居士
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:家督代三久の渡海と、幼少の忠能本人の行動を区別する。関ヶ原・琉球の記事も一族家臣の事績であり忠能の従軍とはしない。家督相続時期は本文にも詳らかでないとする記述がある。/母は野辺盛忍女とする本文に、父忠虎の本妻は新納忠元女との小注がある。婚姻関係の詳細や妻父征久の同定を推測で補わない。/領地配分記事は元和6年と続くが、慶長19年の献上時の事と思われるとの付注がある。所領高は3万230石と読み、本文と注の年代差を保持する。/法名は二厳院殿剛嶽常金居士、院に寺の異注。没地・墓所は明示されず、居住地都城を没地と断定しない。弓術伝承の細語・境界争論の字形や所領記事の一部細注は留保。
DESCRIPTION
本文内容説明
北郷忠虎の嫡子で、母は野辺盛忍の娘と記す。天正18年2月6日生。幼名長千代丸、のち二郎忠能・讃岐守。幼くして父と祖父時久を失い、三久が家督を代行、小杉重頼に養育された。庄内の戦いでは東霧島の守備などに関わり、忠真降伏後に都城で元服、比志島国貞が加冠した。旧領を回復して都城へ帰住。伏見で吉田印西に弓術を学び、譲られた弓を秘蔵し、東山大仏殿では通矢で弓勢を試した。江戸で秀忠に拝謁し馬を拝領。大坂の戦いには二度出立したが、和議・落城により帰陣した。元和元年、都城東方に新宅を設け、一族・家臣の屋敷や小路を整備。所領配分で高城・山之口・勝岡を進上し、晩年には飫肥との境界交渉に当たった。寛永8年2月5日病没、42歳。法名は二厳院殿剛嶽常金居士(院に寺の異注)。没地・墓所は本文に明示されない。
系譜・人物関係
忠虎嫡子、母は野辺宮内少輔盛忍の娘。父の本妻を新納四郎左衛門尉忠元女とする別注を保持し、母を置換しない。5歳で父、7歳で祖父一雲時久を失う。本文で伯父と呼ぶ三久が家督代、久村が後見、小杉重頼入道宗正が養育。妻父征久の記事は忠能本人の改名ではない。
奉公・役職
幼名長千代丸、元服後二郎忠能、讃岐守。父死後三久が家督代、時久と宮之城へ移住。慶長3年伏見で忠恒に見参し本領安堵と腰物拝領。忠真降伏後の5年、比志島国貞加冠で元服し都城へ帰還。志和地山田野々美谷など知行の残置・家老への配分、石山村を久村に付属する記事を記す。17年江戸で秀忠目見・馬拝領、19年帰国の暇と再び馬を賜る。
軍役・事績
庄内の戦いでは代父三久や後見久村らを伴い出陣、忠能は東霧島の守備。諸戦闘には家臣の伏兵・反撃と多数の戦死を記す。忠真降伏後都城へ帰住。関ヶ原は忠泰らと伏見在番久永らの戦い、久永の脱出・嘉明の保護を忠能へ転用しない。琉球渡海は一族久武の行動。12年上洛し吉田印西から射芸を伝授され、山唐衣と名付ける弓を譲られ秘蔵。13年東山大仏殿で通矢により弓勢を試す。大坂へ家久と出立するも和議で豊後森から帰陣、元和元年再出立も落城で帰陣。8月都城東方に新宅を構え一族家臣の屋敷小路を定める。加増後合4万4400石余と記し、その後の配分で高城山之口勝岡を進上、3万230石に減ず(年代付注あり)。寛永4年飫肥の使者4人との境界争論、鹿児島から相良勘解由と原次郎左衛門(北条土佐との朱注)が来るも決着しない。末尾西海拾玉に忠能の和歌。
生没・法名等
寛永8年辛未2月5日病死42歳。法名二厳院殿剛嶽常金居士(院に寺の異注)。本文に没地墓所の明記なし。殉死二人として紀藤丹後守光繁(法号以伝休心)・土屋七左衛門(宗武、法名玄心宗武、一に法山玄正に作との注)を挙げる。個別法号を忠能の法名と混同しない。
- 統合人物ID
- HP-1657
- 原人物ID群
- 03-040-01
- 氏・分類
- 北郷
- 掲載巻頁
- 巻之三40~42頁
- 主題・活動
- 幼少家督・庄内戦・都城帰住・射芸・江戸参勤・大坂出立・所領配分・境界交渉
- 人物関係要約
- 忠虎嫡子、母は野辺宮内少輔盛忍の娘。父の本妻を新納四郎左衛門尉忠元女とする別注を保持し、母を置換しない。5歳で父、7歳で祖父一雲時久を失う。本文で伯父と呼ぶ三久が家督代、久村が後見、小杉重頼入道宗正が養育。妻父征久の記事は忠能本人の改名ではない。
- 検索キーワード
- 北郷忠能/長千代丸/二郎/讃岐守/忠虎/野辺盛忍/新納忠元/三久/時久/小杉重頼/宗正/久村/家督代/庄内/東霧島/都城/伊集院忠真/比志島国貞/元服/吉田印西/山唐衣/通矢/東山大仏殿/秀忠/江戸/馬拝領/大坂/森/新宅/屋敷/小路/高城/山之口/勝岡/三万二百三十石/飫肥/相良勘解由/境界争論/寛永八年二月五日/四十二歳/二厳院殿剛嶽常金居士/紀藤光繁/以伝休心/土屋七左衛門宗武/HP-1260/玄心宗武/法山玄正/西海拾玉
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- AI・通常全4頁と原冊照合済み。家督代・家臣記事と本人の庄内戦・射芸・江戸参勤・大坂出立・所領整備を区別。
- 公開判定根拠
- 本人の事績・病没を確認し、家臣との主語差、系譜注、所領配分年代と法名異注を明示して検索公開。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
- 本文境界判定
- AI・通常各全4頁と原冊第1分冊PDF52下・53上下・54上/冊子40~42頁を照合。忠能見出しから殉死二人と西海拾玉所収の忠能の歌まで同条。関ヶ原戦死名簿・琉球渡海は一族家臣の記事で、本人の軍功に転用しない。末尾紀藤光繁・土屋宗武は殉死者の短い名と法号の注記。土屋は既存HP-1260/06-104-14に対応し重複採番しない。次の〇北郷山城守翁久は別条。通常AI各全頁の本文・傍注・末尾歌を保持し、隣人本文混入を認めずPDF修復不要。HP-1657/03-040-01維持。
- 判読保留
- 家督代三久の渡海と、幼少の忠能本人の行動を区別する。関ヶ原・琉球の記事も一族家臣の事績であり忠能の従軍とはしない。家督相続時期は本文にも詳らかでないとする記述がある。/母は野辺盛忍女とする本文に、父忠虎の本妻は新納忠元女との小注がある。婚姻関係の詳細や妻父征久の同定を推測で補わない。/領地配分記事は元和6年と続くが、慶長19年の献上時の事と思われるとの付注がある。所領高は3万230石と読み、本文と注の年代差を保持する。/法名は二厳院殿剛嶽常金居士、院に寺の異注。没地・墓所は明示されず、居住地都城を没地と断定しない。弓術伝承の細語・境界争論の字形や所領記事の一部細注は留保。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』