HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
平田宗秀
異名・検索語:平田宗秀/平田備中守宗秀/平田式部少輔宗秀/備中守/右京亮/式部少輔/民部少輔/宗秀/平田備中守宗秀/平田式部少輔宗秀
試験導入中の史料別人物解説です
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
注記付き公開可
未確定事項:旧説明の帰順拒否・長男余二・子宗茂光宗を削除。十日余ニシテは期間で人名ではない。巻十二の法号悦山・加世田菩提院の系譜小注を宗秀の法名墓所へ転記しない。紫原の三月三日という割注と他条の年代異同は未校合。
DESCRIPTION
本文内容説明
安房介宗知の子。備中守、右京亮、式部少輔、民部少輔と称する。父の代から谷山山田を領し、皇徳寺後山の苦辛城に居城した。薩州家の川辺地頭とも記す。実久に仕えたが、天文八年三月の紫原合戦翌日、伊集院忠朗を頼り、貴久を苦辛城へ招いて降参した。翌日には城に番兵が入り、十日余りで神前城も貴久方の手に入った。別項では、日新公からの婚姻の勧めを再三断ったものの、それが薩州家に知られて処罰されるという風聞を受け、難を逃れるため貴久を招いたと説明する。天文二十三年十月十二日、岩剣で戦死した。
系譜・人物関係
父は安房介宗知。実久の譜代家臣。伊集院忠朗を頼って貴久へ降参。日新公の婚姻勧誘の逸話を伴う。
奉公・役職
谷山山田苦辛城主。薩州家の川辺地頭とする記載。
軍役・事績
天文八年三月、紫原合戦翌日に貴久を苦辛城へ招き降参。翌日番兵が入り、十日余で神前城も貴久方へ。
生没・法名等
天文二十三年十月十二日、岩剣で戦死。享年不記載。
- 統合人物ID
- HP-1575
- 原人物ID群
- 12-219-02/13-239-14
- 氏・分類
- 平田
- 掲載巻頁
- 巻12:219/巻13:239
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 父は安房介宗知。実久の譜代家臣。伊集院忠朗を頼って貴久へ降参。日新公の婚姻勧誘の逸話を伴う。
- 検索キーワード
- 平田宗秀/備中守/右京亮/式部少輔/民部少輔/宗秀/平田備中守宗秀/平田式部少輔宗秀/谷山山田苦辛城主。薩州家の川辺地頭とする記載。/天文八年三月、紫原合戦翌日に貴久を苦辛城へ招き降参。翌日番兵が入り、十日余で神前城も貴久方へ。/天文二十三年十月十二日、岩剣で戦死。享年不記載。
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 既存の全頁精読・境界確認記録を確認(今回の再精読なし)
- 公開判定根拠
- 既存の全頁精読・境界確認記録と現行PDFのID対応を確認。今回のPDF再精読は行っていない。本文無記載と未確定を区別し、疑義がある場合も注記して出典へ案内する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 巻十二の本伝全2頁と巻十三の略伝全1頁を同じHP-1575に接続。後半の〇は宗秀の婚姻勧誘と降参の経緯で、新人物ではない。
- 判読保留
- 旧説明の帰順拒否・長男余二・子宗茂光宗を削除。十日余ニシテは期間で人名ではない。巻十二の法号悦山・加世田菩提院の系譜小注を宗秀の法名墓所へ転記しない。紫原の三月三日という割注と他条の年代異同は未校合。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』