HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
町田久倍
異名・検索語:町田久倍/町田出羽守久倍/石谷久倍/出羽守/伊賀守/入道存松/存松
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
DESCRIPTION
本文内容説明
町田出羽守久倍は久徳の子で、入道存松。先祖は伊集院の石谷村を領して石谷氏を称し、久倍の代に町田氏へ復した。伊賀守とも称す。伊集院地頭・御使役を務め、耳川合戦、水俣の陣、肥後八代在番に従った。秋月氏との交渉や山鹿への人質派遣を取り次ぎ、忠恒元服では理髪を担当。文禄元年、伊集院久治とともに歳久討手となり、陸手を受け持って吉田の帰路を指揮し、滝ヶ水で歳久を討った。文禄初年に老中となり、大口市山城地頭を命じられると、弟久政を地頭代に置いた。琉球降伏後、国王が早船を献上したことへの復礼使となり、家康・秀忠に拝謁。慶長十五年八月十八日、播磨国明石で没し、大口市山の永福寺に葬られた。
系譜・人物関係
兵部左衛門尉久徳の子。入道存松、出羽守。小注は剃髪前久倍守賀、覚兼日記の天正三年には伊賀守とする。祖先は忠時七男常陸介忠経の三男忠光に遡り、出羽守高久の代に石谷氏へ改め、代々伊集院石谷村を領したという。久倍の代に町田氏へ復姓。弟源左衛門久政は市山地頭代。後続〇町田左京亮忠綱は久倍嫡子だが別項として除外。
奉公・役職
天正年間伊集院地頭、御使役。天正十二年、龍造寺政家・秋月種実の起請文をめぐり平田光宗の連絡を忠平に取り次ぎ、税所新助と秋月氏への使者を務める。人質宇藤伊賀守を久倍と伊集院下野守が山鹿へ送る。十三年忠恒元服では歳久が加冠、久倍が理髪。同年四月、忠平への守護職譲与の使者を島津忠長・伊地知重秀とともに務める。文禄初年老中。大口市山城地頭を命じられたが老中職を離れ難く弟久政を地頭代に移す。慶長十四年琉球国王の献船を契機に竜伯の復礼使となり、家康・秀忠に目見。
軍役・事績
永禄十一年菱刈隆秋の謀反時、久倍は菱刈勢と戦い有馬田源四郎を討ったと記す。天正三年四月二十一日の琉人来会では犬追物。六年耳川、九年水俣、十一年春肥後八代在番、十四年筑紫・岩屋城方面へ出陣し義久・忠平に供奉、同年十一月豊後入りでは義珍の手で肥後口から出立、十五年三月引陣。文禄元年七月十八日、久治と歳久討手、久治は船手、久倍は陸手で吉田の帰路を指揮し滝ヶ水で討つ。琉球記事は征伐軍の指揮ではなく、降伏後の献船・感状・復礼使の記事。
生没・法名等
慶長十五年八月十八日、播州明石で死去。大口市山永福寺へ葬る。生年・享年の明記なし。法名は惟仙宗〔判読保留一字〕居士とし、宗に続く字は拡大しても確定を保留。
- 統合人物ID
- HP-1178
- 原人物ID群
- 08-129-01
- 氏・分類
- 町田
- 掲載巻頁
- 巻8:129
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 兵部左衛門尉久徳の子。入道存松、出羽守。小注は剃髪前久倍守賀、覚兼日記の天正三年には伊賀守とする。祖先は忠時七男常陸介忠経の三男忠光に遡り、出羽守高久の代に石谷氏へ改め、代々伊集院石谷村を領したという。久倍の代に町田氏へ復姓。弟源左衛門久政は市山地頭代。後続〇町田左京亮忠綱は久倍嫡子だが別項として除外。
- 検索キーワード
- 町田久倍/石谷氏/存松/伊賀守/出羽守/久徳子/久政弟/菱刈/犬追物/伊集院地頭/御使役/耳川/水俣/八代在番/秋月種実/龍造寺政家/山鹿人質/忠恒元服理髪/守護職譲与使/岩屋/豊後/歳久討手/陸手/吉田/滝ヶ水/老中/大口市山地頭/琉球献船/復礼使/家康秀忠拝謁/慶長十五年八月十八日/播州明石死去/市山永福寺葬
- 公開区分
- 公開可
- 精読・確認状況
- 従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
- 公開判定根拠
- 従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁精読
- 本文境界判定
- 旧AI全2頁と原冊子129頁・第13集-2.pdf63頁を照合。第1頁右端の見出し脇小注が見切れていたため上下段を余白付きで再裁断。通常・AI各2頁を再確認し、町田出羽守久倍から下段の市山永福寺へ葬るまでを収録。〇御使役・耳川・市山地頭は同人の続記事。次の〇町田左京亮忠綱と〇町田図書頭久幸は含まれない。新規採番なし。
- 判読保留
- 没日は八月十八日と確定。法名末字の難字は保留し公開文へ採らない。先祖系譜の細字・嫡流異注は同定を保留。旧説明の四老中は本文の御老中役に合わせ老中へ修正。末尾の拝謁を一律江戸で家康秀忠としない。歳久討手は船手久治・陸手久倍を区別。軽微な字形保留を残し確定事績で公開可。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』