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HP-0831巻二:30注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

新納忠増

異名・検索語:新納忠増/新納弥太右衛門尉忠増/弥太右衛門尉/次郎九郎/左京亮/鉄翁盛関居士

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:没年は主文が慶長13年、細注は墓誌九年甲辰トアリとし一致しない。5月7日は確認できるが没年は両記載を併記する。/島原の太刀初は本文の語を保持し、生涯初陣とは断定しない。岐阜城を攻め落とした主体は関東勢で、忠増の岐阜城攻め参加を本条から認定しない。

DESCRIPTION

本文内容説明

新納忠元の二男で、母は種子島時興の娘と記す。弥太右衛門尉・次郎九郎・左京亮と称した。天正12年3月の島原合戦で「太刀初」の働きをし、同14年には忠元の名代として豊後へ出て平田豊前と諸城を攻略した。同15年、忠元に従い人質として上京し、同18年に忠光が上京すると帰国した。朝鮮出兵に供奉し、慶長5年8月は義弘に従って大垣へ赴く。川上久右衛門と三成の馬の口を取り、引き留めた記事がある。関ヶ原では盛淳の呼び掛けに真っ先に応じて馬を返し、島津久元・毛利覚右衛門とともに後方に残ったと記す。大隅山田地頭を務めた。没日は5月7日、没年は本文が慶長13年、墓誌注が同9年。法名は鉄翁盛関居士、墓は泉徳寺。二女は久元・上井兼道に嫁ぎ、二男久連らを記す。生年・享年・没地は不明。

系譜・人物関係

忠元入道拙斎の二男。母は種子島時興女と読め、旧要約の時堯を引き継がない。二女二男を記し、一女は島津下野守久元妻、二女は上井市正兼道妻。一男は忠光の嗣となると記すが本条では実名を記さず、二男は左京亮久連。子孫は新納弥太右衛門と頭注する。

奉公・役職

弥太右衛門尉、次郎九郎、左京亮。天正15年、忠元が関白殿へ出頭した際、人質として御供にて上京、太守公の膝下に常に奉仕と記す。太守の実名を本条だけで補わない。同18年、忠光上京に伴い忠増帰国。大隅山田地頭職と記す。

軍役・事績

天正12年3月肥前島原合戦の太刀初を記すが初陣と同義とはしない。同14年、忠元名代で豊後へ赴き、権現城・城ヶ尾・滑之城を平田豊前と攻略。朝鮮国御供。慶長5年8月惟新公供で大垣へ、同22日関東が岐阜城を攻落、江渡を渡ったと続く。三成が先に大垣へ退こうとし、忠増と川上久右衛門が馬の口を取って留めようとしたが聞き入れられない。義弘は須俣の家来が退くまで退かないとの文脈。9月15日関ヶ原、長寿院盛淳が合戦を呼び掛けた際、忠増が一番に応じ馬を返し、久元・毛利覚右衛門も同様に後方へ残ったと記す。単純に退却供奉・岐阜攻略へ言い換えない。

生没・法名等

主文は慶長13年申5月7日卒、細注は墓誌九年甲辰トアリ。没年の不一致を併記し解消済みとしない。鉄翁盛関居士は原冊拡大で確認。墓は泉徳寺。生年・享年・没地は本条に明記なし。山田地頭と墓所から没地を推定しない。

統合人物ID
HP-0831
原人物ID群
02-030-05
氏・分類
新納忠増
掲載巻頁
巻二:30
主題・活動
豊後軍役・人質・朝鮮供奉・関ヶ原・山田地頭
人物関係要約
忠元入道拙斎の二男。母は種子島時興女と読め、旧要約の時堯を引き継がない。二女二男を記し、一女は島津下野守久元妻、二女は上井市正兼道妻。一男は忠光の嗣となると記すが本条では実名を記さず、二男は左京亮久連。子孫は新納弥太右衛門と頭注する。
検索キーワード
新納忠増/弥太右衛門尉/次郎九郎/左京亮/新納忠元/拙斎/種子島時興/島原/太刀初/豊後/権現城/城ヶ尾/滑之城/平田豊前/上京/人質/忠光/帰国/朝鮮/惟新公/義弘/大垣/川上久右衛門/三成/須俣/関ヶ原/長寿院盛淳/島津久元/毛利覚右衛門/大隅山田地頭/慶長十三年/墓誌九年甲辰/五月七日/鉄翁盛関居士/泉徳寺/上井兼道/久連
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常・AI各全1頁と原冊照合済み。母名・通称・人質と軍歴・地頭・最期を具体化し、没年異説を併記。
公開判定根拠
本人の豊後軍役、人質、朝鮮供奉、大垣と関ヶ原の行動を確認。太刀初の意味と没年異説を注記して本文へ案内する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
通常・AI各全1頁と原冊30頁下段を照合。新納弥太右衛門尉忠増の見出しから軍歴・人質・大垣関ヶ原・地頭・没年・子女の末尾久連也まで一条。隣の忠秀・次の久連の独立条は含めない。右見出し脇注を保持して余白を調整、左隣の文字片を除外。修復通常・AI各全頁確認、既存02-030-05/HP-0831維持。
判読保留
没年は主文が慶長13年、細注は墓誌九年甲辰トアリとし一致しない。5月7日は確認できるが没年は両記載を併記する。/島原の太刀初は本文の語を保持し、生涯初陣とは断定しない。岐阜城を攻め落とした主体は関東勢で、忠増の岐阜城攻め参加を本条から認定しない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』