← 『本藩人物誌』人物検索へ戻る
HP-0821巻二:25~30注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

新納忠元

異名・検索語:新納忠元/武蔵守/拙斎/為舟/蓍翁良英庵主/式部少輔(旧索引表記)

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:郡山初陣の前段は天正十四年乙巳と記す一方、19歳初合戦・後続の天文23年記事と整合しない。年号を無注記で天文に直さない。/天正15年退却記事の日付には前後があり、慶長4年山田城で75歳との記載も大永6年生と単純には整合しない。軍歴の年齢・日付を確定年表として扱わない。/火葬寺名の細字は確読を留保する。母の官途注には周防に異字注があり、正規化せず原画像を参照する。

DESCRIPTION

本文内容説明

新納祐久の嫡子、母は岡氏久友の娘。大永6年生、13歳で父と田布施の日新公(忠良)に奉見した。武蔵守、号は拙斎・為舟。大口・清敷・飯野などの地頭を歴任し、馬越・木崎原・島原などで戦い、国境守備や天草・出水方面の和平交渉も担った。豊後出陣時は病気で遅参し、諸城攻め・利満合戦には不在と記す。天正15年、大口で抗戦を構えたが命に従って城を出て剃髪し、秀吉に謁見、長刀を賜った。二男忠増を人質として伴い上京し、慶長元年に帰国。庄内の陣でも働き、同5年に再び大口地頭となり千石を加増された。和歌をよくし、近衛竜山公と交流、細川幽斎にも詠歌を賞された。同14年、軍功19度を書き上げ義久の感状を受ける。翌15年12月3日病没、85歳。法名は蓍翁良英庵主。墓は大口興善院の東の田、位牌は大口青木村泉徳寺と記す。没地は記載なし。

系譜・人物関係

父は次郎四郎・刑部大輔祐久で本人は嫡子。母は岡氏久友女(官途本文は周防守、異字注あり)。嫡子忠堯は父の病気により代わって有馬へ渡海し戦死、二男忠増は人質として上京、孫忠光が後に交替。母の没日・法名門一房・墓専念寺を本人に帰属させない。

奉公・役職

天文7年13歳で父と田布施へ参上し日新公に奉見。御使役、大口・清敷・飯野・再大口の地頭を歴任し、天正13年には三船地頭と記す。天正6年は肥後球磨との国境である大口在番のため日州へ出陣せず。天草・出水義虎との和平交渉に携わる。慶長5年9月、大口地頭へ再任され千石加増。見出しは武蔵守で旧索引式部少輔を本文確認済み官途としない。

軍役・事績

郡山初陣、岩剣、馬越、木崎原、島原等の軍歴を列挙。大口方面で竹添丹波との槍戦に腹・頭計六箇所負傷。豊後では病気で遅参し諸城攻め・利満合戦には不在、根白坂でも病気で本人は出ず兵三百を派遣と記す。天正15年大口抗戦を構えるが命に従って城を出て剃髪、拙斎と号し秀吉陣へ出頭、長刀・道服等を賜る。二男忠増と上京、慶長元年春帰国。三年間は人質の予定期限で実際の滞在年数ではなく、前後十三年は子孫を含む人質記事。庄内で山田城攻めに働く。慶長14年、証拠のない戦功を除き十九度を書上、12月7日義久感状。和歌三十首を細川幽斎に示し十六首に点を受ける。近衛竜山公との即詠・餞別宴、大島忠泰の渡海への贈歌等を掲載。忠元本人の朝鮮渡海とはしない。

生没・法名等

大永6年丙戌生(月不明)。慶長15年庚戌12月3日病死85歳、法名蓍翁良英庵主。墓は大口興善院の東の田中、位牌は大口青木村泉徳寺と記す。没地は明記なし。火葬寺名細字は留保。母の某年6月21日没、法名門一房、墓大口専念寺とは区別。殉死者は伊地知又十郎重近入道世休と宮竹休兵衛の二人。殉死を許されなかった五十余人が指を切って葬送に供した記事を五十余人殉死としない。

統合人物ID
HP-0821
原人物ID群
02-025-06
氏・分類
新納忠元
掲載巻頁
巻二:25~30
主題・活動
地頭奉公・軍役・国境守備・和平交渉・人質・和歌
人物関係要約
父は次郎四郎・刑部大輔祐久で本人は嫡子。母は岡氏久友女(官途本文は周防守、異字注あり)。嫡子忠堯は父の病気により代わって有馬へ渡海し戦死、二男忠増は人質として上京、孫忠光が後に交替。母の没日・法名門一房・墓専念寺を本人に帰属させない。
検索キーワード
新納忠元/武蔵守/拙斎/為舟/新納祐久/岡氏久友/日新公/忠良/大口/清敷/飯野/三船/地頭/馬越/木崎原/島原/豊後/病気遅参/利満/国境守備/天草/出水義虎/和平交渉/秀吉/剃髪/忠堯/忠増/忠光/人質/庄内/山田城/千石加増/軍功十九度/義久感状/近衛竜山/細川幽斎/和歌/蓍翁良英庵主/大口興善院/青木村泉徳寺/慶長十五年十二月三日
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常・AI各全10頁を確認。家族の生没・本人の軍役と不参加を分離し、年次の不整合を留保。冒頭末尾境界修復済み。
公開判定根拠
本人の見出し・系譜・地頭奉公・軍歴・交渉・和歌・最期を全10頁で確認。年代不整合と一部細字を注記して本文へ案内する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
通常・AI各全10頁を確認。冒頭を祐久嫡子の脇注まで保持して再切出し、末尾を原冊30頁の文書参照末尾まで保持し次の〇新納刑部大輔忠堯を除く。中間8頁は維持。一・〇は主に軍歴・和歌・文書列挙の区切りで独立人物ではない。忠堯等は関連者で新ID不要。既存02-025-06/HP-0821維持。
判読保留
郡山初陣の前段は天正十四年乙巳と記す一方、19歳初合戦・後続の天文23年記事と整合しない。年号を無注記で天文に直さない。/天正15年退却記事の日付には前後があり、慶長4年山田城で75歳との記載も大永6年生と単純には整合しない。軍歴の年齢・日付を確定年表として扱わない。/火葬寺名の細字は確読を留保する。母の官途注には周防に異字注があり、正規化せず原画像を参照する。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』