HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE
樺山規久
異名・検索語:樺山規久/樺山兵部大輔規久/兵部大輔/規久/太郎
この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。
未確定事項:高城番任命時の中書御替という記載は原呼称として保持し、中書の実名を補わない。松山陣の追払いを規久単独の戦功と断定しない。/敵首数百の討取りは規久を含む日州勢・佐土原穆佐衆の働きとして記される。規久一人の討取り人数にしない。/高原城攻めの太郎・三郎兄弟の小注は保持するが、三郎の実名を補わない。没地の唐島を現代地名へ無注記で置換しない。
DESCRIPTION
本文内容説明
樺山兵部大輔規久、太郎は忠助の嫡子で、弘治三年生。母は村田越前守の女。天正六年の大友勢による高城攻めの際、松山陣を追い払った後の高城番に任じられ、穆佐高城を与えられて一族と移った。天正十年には肥後の熊本に在陣し、比良城攻めと撤退時に日州勢とともに働き、佐土原・穆佐衆による多数の討取りを記す。同十二年の島原合戦にも従い、同十四年には父と豊後へ出陣した。小注に天正四年の高原城攻めへ太郎・三郎兄弟で従った記事もある。文禄二年四月八日、高麗の唐島で病死、三十七歳。法名は情安存有。
系譜・人物関係
忠助の嫡子。太郎、兵部大輔。母は村田越前守女。弘治三年生。高原城攻め小注に太郎三郎兄弟。
奉公・役職
高城番、穆佐高城を領して一族移住。父忠助と豊後出陣。
軍役・事績
大友勢高城攻めに伴う城番任命、熊本在陣と比良城戦、島原合戦、豊後出陣、高原城攻め小注。集団の討取りを本人単独の人数にしない。
生没・法名等
文禄二年四月八日、高麗唐島で病死、三十七歳。法名情安存有。
- 統合人物ID
- HP-0210
- 原人物ID群
- 05-078-03
- 氏・分類
- 樺山
- 掲載巻頁
- 巻5:78~79
- 主題・活動
- 系譜・奉公・役職・軍役・生没
- 人物関係要約
- 忠助の嫡子。太郎、兵部大輔。母は村田越前守女。弘治三年生。高原城攻め小注に太郎三郎兄弟。
- 検索キーワード
- 弘治/天正/文禄/城番/合戦/攻落/豊後/肥後/島原/嫡子/子/父/母/女/法名/歳/軍役・家督・系譜
- 公開区分
- 注記付き公開可
- 精読・確認状況
- 通常AI各全2頁・原冊78~79頁・拡大・修復候補全頁確認済。
- 公開判定根拠
- 高城番任命・一族移住と軍役を具体化し集団戦功を区別。原呼称等を留保して公開する。
- 説明作成区分
- AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
- 本文境界判定
- 冊子78頁下段〇樺山兵部大輔規久から79頁上段右端の罷立候・高原城攻め小注・病没・法名まで全2頁。〇天正十年・〇天正十二年は規久の事項見出し。次の〇樺山鶴丸は独立条。第2頁左端481.341249から483.5ptに調整して隣条字片を除去。末尾の歳法名情安存有を保持。第1頁不変、新規IDなし。
- 判読保留
- 高城番任命時の中書御替という記載は原呼称として保持し、中書の実名を補わない。松山陣の追払いを規久単独の戦功と断定しない。/敵首数百の討取りは規久を含む日州勢・佐土原穆佐衆の働きとして記される。規久一人の討取り人数にしない。/高原城攻めの太郎・三郎兄弟の小注は保持するが、三郎の実名を補わない。没地の唐島を現代地名へ無注記で置換しない。
出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』