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HP-0210巻5:78~79注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

樺山規久

異名・検索語:樺山規久/樺山兵部大輔規久/兵部大輔/規久/太郎

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:高城番任命時の中書御替という記載は原呼称として保持し、中書の実名を補わない。松山陣の追払いを規久単独の戦功と断定しない。/敵首数百の討取りは規久を含む日州勢・佐土原穆佐衆の働きとして記される。規久一人の討取り人数にしない。/高原城攻めの太郎・三郎兄弟の小注は保持するが、三郎の実名を補わない。没地の唐島を現代地名へ無注記で置換しない。

DESCRIPTION

本文内容説明

樺山兵部大輔規久、太郎は忠助の嫡子で、弘治三年生。母は村田越前守の女。天正六年の大友勢による高城攻めの際、松山陣を追い払った後の高城番に任じられ、穆佐高城を与えられて一族と移った。天正十年には肥後の熊本に在陣し、比良城攻めと撤退時に日州勢とともに働き、佐土原・穆佐衆による多数の討取りを記す。同十二年の島原合戦にも従い、同十四年には父と豊後へ出陣した。小注に天正四年の高原城攻めへ太郎・三郎兄弟で従った記事もある。文禄二年四月八日、高麗の唐島で病死、三十七歳。法名は情安存有。

系譜・人物関係

忠助の嫡子。太郎、兵部大輔。母は村田越前守女。弘治三年生。高原城攻め小注に太郎三郎兄弟。

奉公・役職

高城番、穆佐高城を領して一族移住。父忠助と豊後出陣。

軍役・事績

大友勢高城攻めに伴う城番任命、熊本在陣と比良城戦、島原合戦、豊後出陣、高原城攻め小注。集団の討取りを本人単独の人数にしない。

生没・法名等

文禄二年四月八日、高麗唐島で病死、三十七歳。法名情安存有。

統合人物ID
HP-0210
原人物ID群
05-078-03
氏・分類
樺山
掲載巻頁
巻5:78~79
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
忠助の嫡子。太郎、兵部大輔。母は村田越前守女。弘治三年生。高原城攻め小注に太郎三郎兄弟。
検索キーワード
弘治/天正/文禄/城番/合戦/攻落/豊後/肥後/島原/嫡子/子/父/母/女/法名/歳/軍役・家督・系譜
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
通常AI各全2頁・原冊78~79頁・拡大・修復候補全頁確認済。
公開判定根拠
高城番任命・一族移住と軍役を具体化し集団戦功を区別。原呼称等を留保して公開する。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合・境界修復
本文境界判定
冊子78頁下段〇樺山兵部大輔規久から79頁上段右端の罷立候・高原城攻め小注・病没・法名まで全2頁。〇天正十年・〇天正十二年は規久の事項見出し。次の〇樺山鶴丸は独立条。第2頁左端481.341249から483.5ptに調整して隣条字片を除去。末尾の歳法名情安存有を保持。第1頁不変、新規IDなし。
判読保留
高城番任命時の中書御替という記載は原呼称として保持し、中書の実名を補わない。松山陣の追払いを規久単独の戦功と断定しない。/敵首数百の討取りは規久を含む日州勢・佐土原穆佐衆の働きとして記される。規久一人の討取り人数にしない。/高原城攻めの太郎・三郎兄弟の小注は保持するが、三郎の実名を補わない。没地の唐島を現代地名へ無注記で置換しない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』