今川了俊書状
「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷虎五郎の注進を了承し、菊池肥前守以下の凶徒を蠣打で討ったことを伝え、肥後対治のため今川兵部大輔とともに忠節を尽くせば本領知行を保障すると述べた書状。
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「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷虎五郎の注進を了承し、菊池肥前守以下の凶徒を蠣打で討ったことを伝え、肥後対治のため今川兵部大輔とともに忠節を尽くせば本領知行を保障すると述べた書状。
「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷清色虎五郎に、時機が整ったので速やかに姿を現し、今川兵部大輔とともに忠節を尽くすよう命じ、本領知行を保障すると述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 567頁
明応四年、越中国将軍の上使として一色兵部大輔が下向し、島津忠昌が隅州曽於郡で対面したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 142頁
天正十四年正月、島津方が豊後の護摩所へ攻め入り、肥後・日向口で軍事行動を進めたことを記す島津義久譜。正月二十三日には羽柴秀吉から新年の書状が届き、義久が細川兵部大輔入道を通じて返書した。豊後侵攻と中央政権への外交が並行していたことを示す。
三月十七日 / 冊子 6頁
進藤長治が、便がなく長く連絡できなかったことを詫び、両殿への取成しと近況の知らせを求めた書状。兵部大輔には別紙を送れないため伝達を頼み、詳しいことは新介から申し入れるとする。
九月五日 / 冊子 6~7頁
進藤長治が、先に贈られた和歌への感謝を述べ、急便のため自作を返せないことを詫びた書状。予期せず下向した際の馳走と懇意に謝し、早速上洛して家門へ報告するとし、兵部大輔や光明寺寒汀齋らへの取次ぎも頼む。
五月十五日 / 冊子 142~143頁
今川了俊が澁谷氏一門に、島津氏久父子がなお参陣しない場合は討治し、参陣した場合は速やかにこちらへ出陣するよう指示した書状。氏久討治の際には兵部大輔と合戦して忠節を示すこと、一門内の所領相論は一時差し置き、双方の文書に基づいて裁定を受けることを求める。
三月廿一日 / 冊子 180頁
今川了俊が澁谷庶五郎に、前月十八日付の注進を承知したと返答し、菊池肥前守以下の凶徒を蛤打で討ち、肥後平定も間近であると伝えた書状。今川兵部大輔と協力して忠節を尽くせば、本来の知行に相違がないよう取り計らうと述べる。
七月五日 / 冊子 182頁
今川了俊が澁谷清敷庶五郎に、兵部大輔が下向した際の請文を受け取り、同人に詳しく申し含めたと伝えた書状。大隅・薩摩の事では相手を特に頼みにすると述べ、御下の近日到来と早い対面を望み、合戦が決着すれば諸将と同心して国中へ打ち出すよう求める。
本文年月日不記;外包:文久元年酉9月5日 / 冊子 237頁/原整理番号 330の2/整理ID 330-2
藤堂和泉守・松平兵部大輔・松平右近将監・榊原式部大輔の四家を掲げ、濃州・勢州・尾州・東海道筋の川々の普請御用を仰せ付けたので承知するよう知らせる別紙。取計方は勘定奉行松平出雲守と吟味役立田禄助から伝えるので承合するよう命じる。右一通也の表示。本文年月日不記。外包は文久元年酉九月五日、左衛門から格護しておく旨を平田九十郎へ知らせ、白木御文書十番箱へ納めた記録。
延享三年三月廿日 / 冊子 901頁/整理ID 2426
大目付に宛てた御書付の写し。追啓廻状の趣旨を承知した旨をその晩のうちに河野豊前守へ申し聞かせるよう求める。同列の四品以上の諸大名にも漏れなく伝達し、各人から豊前守へ返答させる段取りを記す。
年月日未詳 / 冊子 420頁
関白の意向を受けて島津義久らの帰国が決まり、石田三成の取り次ぎや船の手配、京都での別れを経て国元へ向かった経過を長谷場越前が回想する。 義久一行の帰国準備、贈答、鹿児島への到着・出迎えまでを具体的に記し、豊臣政権下での島津家の移動と儀礼を伝える。
正月廿日 / 冊子 11頁
大仏造営用材の調達を伊集院・島津図書らに厳命するよう求め、あわせて巣鷹を当年中に差し出せるよう尽力を命じた朱印状。
記事成立日:未確認 / 冊子 188頁/整理ID TMP-P02-CONT-A45
兵部大輔の在判書二通を以下に記す導入記事。
宝永元年八月十四日 / 冊子 493頁/整理ID 1728
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が八月十四日、嶋津勘解由・川上式部へ、中将の病気が快方へ向かったと聞き喜び、さらに容体を尋ねたいとして、左大臣(家熙と注)の意で見舞いの干鱧一箱を贈ると伝える。
四月十六日 / 冊子 565–566頁/整理ID 1939
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が四月十六日、嶋津大蔵・勘解由・帯刀へ、亀姫を薩摩守の養子とする件が首尾よく許され、先頃の使者による通知に両公が満悦したと伝える。薩摩守と奥方への祝儀として目録どおり品を贈った旨を、両公の命として通知する。
四月廿七日 / 冊子 568頁/整理ID 1946
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が四月二十七日、嶋津大蔵・勘解由・帯刀へ、本殿の普請が完成し今日両御所が移徙した大慶を伝える。その礼は書状で申し入れられるべきだが、まず自分たちから伝えるよう命じられたという。
六月十四日 / 冊子 584–585頁/整理ID 1987
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が六月十四日、嶋津勘解由・帯刀へ、酷暑の中で薩摩守一家と各人が健やかなことを喜ぶ。昨日十三日に大納言の婚礼が首尾よく済み、今朝も亀姫の機嫌がよく喜ばれていると報じ、当地でも両公が大慶していると推察し、その趣を伝える。
(延享四年)八月十三日 / 冊子 23頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0057
本多正珍が松平上総入道に、三御所の機嫌が良いと聞いて喜び、義丸が松平兵部大輔の養子となったことを了承したと伝えた。書状の趣旨は関係者で相談して上聞に達した。
(延享四年)八月十三日 / 冊子 23頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0058
西尾忠尚が松平上総入道に、三御所の機嫌が良いと聞いて喜び、義丸が松平兵部大輔の養子となったことを了承したと伝えた。書状の趣旨は言上した。
(延享四年)八月十三日 / 冊子 24頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0060
本多正珍が松平薩摩守に、三御所の機嫌が良いと聞いて喜び、義丸が松平兵部大輔の養子となったことを了承したと伝えた。書状の趣旨は関係者で相談して上聞に達した。
(延享四年)八月十三日 / 冊子 24頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0061
西尾忠尚が松平薩摩守に、三御所の機嫌が良いと聞いて喜び、義丸が松平兵部大輔の養子となったことを了承したと伝えた。書状の趣旨は言上した。
年月日未詳 / 冊子 472頁/原整理番号 464
『平塞録』十三日の記事。有馬兵部大輔の旗本人数が当日着陣し、先手の家老中を召し連れて以前から参陣していた人数と合わせ、総勢一万人になったと記す。
文書日付:六月四日 / 冊子 249頁/原整理番号 三〇五/整理ID TMP-P02-NENE1-D0305
前頼が、路次の不便で連絡が途絶えていたが別意はないと述べる。 三ヶ国の情勢に触れ、大将として今河兵部大輔殿が下向し、使者が進められたことを報じる。 公私の御計らいを求め、西方の事情等を使者に詳しく伝えるよう依頼する。
元禄十五年正月三日 / 冊子 340頁/整理ID 1126
綱貴が今大路兵部大輔(光好傍注)へ、改年を祝い、右府(近衛家熙傍注)の勇健な越年を喜ぶ。祝詞を申し上げ、太刀一腰・馬代黄金十両を進上する旨を、よろしく取り次いで伝えてほしいと頼む。書状宛先今大路と進上対象右府を区別する。
元禄十七年三月晦日 / 冊子 473頁/整理ID 1640
島津綱貴が今大路兵部大輔へ、左大臣の健勝を喜び、年始の祝詞と太刀一腰・馬一疋・調合した薫物二香合を賜ったことに謝意を述べ、その旨の取り次ぎを頼んだ書状。
元禄十七年四月六日 / 冊子 476頁/整理ID 1653
島津綱貴が今大路兵部大輔へ、左大臣の転任を祝う使者として家臣相良市郎左衛門を遣わした際、御前への召し出し、料理、拝領物を受けたことに謝意を述べた書状。
宝永元年五月十日 / 冊子 483頁/整理ID 1684
島津綱貴が今大路兵部大輔へ、左大臣近衞家熙の健勝を喜び、国元の品々を献上したことへの謝意と、綱貴が無事参府したことを伝えた書状。
宝永元年六月二日 / 冊子 486頁/整理ID 1697
島津綱貴が今大路兵部大輔へ、左大臣の転任を祝ったところ礼を受け、太刀・御馬代と目録記載の品を拝領したことに謝意を述べた書状。
宝永元年七月二十七日 / 冊子 490頁/整理ID 1717
島津綱貴が今大路兵部大輔へ、政姫が同月二十二日に死去したことを悼み、言葉に尽くせない悲しみと弔意を伝えた書状。
元禄十四年二月十二日 / 冊子 345頁/整理ID 1147
今大路光好が喜入久亮へ、前年十二月に当地の屋敷まで届けられた歳暮祝儀の書状を右大臣が喜んでおり、礼だけの用件なので右大臣自身は返書を出さず、光好から一同へその旨を伝えるよう命じられたと知らせた書状。
宝永元年八月十四日 / 冊子 492–493頁/整理ID 1727
次条とは贈主と品・容器が異なる。
宝永元年八月十四日 / 冊子 493頁/整理ID 1729
今大路治部少輔ら四人が島津勘解由・川上式部へ、大納言が島津綱貴の病気回復を喜び、さらに病状を聞きたいとして、見舞いの印に糟漬鯛一桶を贈った旨を伝えた連署書状。前二通とは差出人側の意向主と見舞品が異なる。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
天明五年三月四日 / 冊子 796~798頁/原整理番号 2195の9/整理ID 2195-9
将軍転任祝儀の招請人名を63件列記する。三月四日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。掲載数は出席人数を表さない。
天保十三年十二月一日(朱注は十四を十三に訂正) / 冊子 55~56頁/原整理番号 84の3/整理ID 84-3
正四位下の源朝臣斉興を正四位上に進める位記。中務の職と兵欄・羽衛に関わる勤め、精誠と夙夜在公を挙げ、栄級を申して寵章を用いるとして、主者の施行を命じる。二品行中務卿仁親王の宣、行中務大輔卜部行學の奉、行中務少輔藤原隨資の行に続き、大納言・中納言の官位と氏名を列記する。制書・施行の文言、幸経らの謹言、助教・中原師徳・俊克の表示、関白鷹司政通と二条斉信・九条尚忠・近衛忠熙、兵部大輔定徳、符到奉行を受ける嘉純、大録氏萬と少録の欄まで収める。日付は天保十三年十二月一日で、途中の十四年表示を十三年に改める朱注がある。空欄の天皇御璽欄も保持される。
年月日未詳 / 冊子 291~292頁/原整理番号 105
元久譜が、渋谷鶴田方と久哲の結託を背景に、応永八年九月五日、元久が三千五百騎で熊越に陣し鶴田古城・鵜巣・神崎などを攻めたと記す。新納久頭、中野四郎九郎、伊集院兵部大輔らの戦死と、敵味方が入り乱れた攻陣の後に元久方が勝利したという叙述を載せる。山路が遠く援兵が少なく、兵糧や塩も欠乏し、軍功をめぐる訴えや不安があった。谷山郡山田村三十町の賞与と吉田氏からの借地、菱刈への動きと帰陣、のちに中村六町と屋敷・綱蒲の地を山田氏へ返す経緯も記す。
年月日未詳 / 冊子 293頁/原整理番号 108
山田聖栄自記が、鶴田方の総州への接近で元久が難儀したこと、萩平と神崎の二つの総陣で射合いから太刀打ちとなったことを記す。新納久頭、中野四郎九郎、伊集院兵部大輔らが戦死し、総州方の外垣へ切り込んだ混戦では元久方が勝ったが、味方にも多くの死傷者が出た。元久方は求麻・和泉・牛屎・菱刈につながる大勢でも内輪の不満があり、借地の扱いも難題となった。谷山の山田氏の地三十町は鶴田方へ、和田三十町は蒲生方へ、中村六町と綱と呼ぶ添地は山田氏へ預けるなどして和議を計り、鶴田方が総州に付き元久側から退いた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 297頁/原整理番号 124
元久譜が、上総介伊久法師久哲の応永十四年五月四日の死去後、薩摩州平佐城にいた二男忠朝を守護への仇として兵を率いて攻め、城を陥したと記す。碇山兵部大輔、長野備前守、勝部摂津介、市来又左衛門尉、中間五郎九郎、石塚讃岐守らを斬獲したという。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):永和四年戊午三月四日同五日;同年同月六日 参照事件年紀:永和四年戊午三月四日同五日 参照事件年紀:同年同月六日 / 冊子 77頁/整理ID KW1-G000057
永和四年戊午三月四日・同五日の今川了俊による催促状を挙げる。 同年同月六日の今川兵部大輔滿範の簡牘も挙げ、事は書中に詳しいとする。
現行年紀:五月十八日 / 冊子 93頁/原整理番号 156/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0156
三ヶ国の敵徒と八代対治を述べ、参陣を求める。 兵部大輔との合流、または了俊自身の陣への参入を促す。 玄久の梅北寄来と伊久の南方発向に触れ、不参陣者への処置を述べる。大隅・薩摩守護職は「自元了俊拝領」と記す。
現行年紀:壬七月廿二日 補記(正文と別層):永和二年 / 冊子 99頁/原整理番号 166/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0166
嶋津上総介の事を京都へ注進したが、今は氏久に同心していると述べ、再び協力を求める。 大将兵部大輔が越えて来たら一所で談合すること、参陣について京都へ申し入れたことを伝える。
記事成立日:未確認 / 冊子 108頁/整理ID KW1-G000073
今川兵部大輔満範ほかの簡牘十五通を掲げる導入記事。
現行年紀:霜月十六日 補記(正文と別層):(康暦二年) / 冊子 113頁/原整理番号 191/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0191
薩州南方の人々の御方参加と伊久・玄久らの合戦の注進を受け、祢寝殿の合力に謝し、内心からの忠節を求める。 昨日京都から成下した三ヶ国の人々への八代発向の御教書を伝え、教書案文を祢寝殿へ送り、正文は兵部大輔方へ送ったと述べる。 玄久・伊久の私事を公方の御用と区別し、祢寝殿に八代への早い参陣を催促する。
文書日付:七月三日 刊本補年:(永和二年) / 冊子 270頁/原整理番号 三四六/整理ID TMP-P02-NENE2-D0346
六月二十二日に請文が到来したと伝える。 兵部大輔方へ、大隅・薩摩国の事を一向に頼む旨を申し遣わしたと知らせる。 相手方の志を喜び、兵部大輔方へ同じ躰で連絡したので、事が落居したら面々が合力のため出るよう求め、相談を望む。
冒頭条々の刊本日付表示:卯四三 補記(正文と別層):康暦元 / 冊子 384頁/原整理番号 六二五/整理ID TMP-P03-NENE6-D0625
氏久対治のため軍勢を催促し、一揆人々の忠節を命ずる事書。日向山東人々には兵部大輔との同道・自身発向を求める。不参者は氏久同心と扱い、二ヶ国対治により大将帰参が必要になる場合を示す。
元禄十三年八月二十五日 / 冊子 230頁/整理ID 790
綱貴が進藤筑後守・今大路兵部大輔・進藤修理亮・今大路治部少輔へ、大納言家久と娘の縁組について親族一同が望み自身も承知したこと、関白・右府が満悦と蓮光院から聞いたことを伝えた書状。元祖以来の由緒を挙げつつ不釣合いな栄誉への思いを述べる。娘を出生時から養育した祖母陽和院の意向には書面で述べがたい点があり、近日蓮光院を上京させ口上に含めるので取り次ぐよう頼む。本書そのものと、予定する口上伝達を区別する。
文書日付:十一月廿二日 / 冊子 380~382頁/原整理番号 六二二/整理ID TMP-P03-NENE6-D0622
了俊が兵部大輔殿に、今後氏久・伊久が非儀を行うなら一揆側の申告に基づき京都へ申し入れ、一揆を支える意向を伝える。 氏久らの参陣を待って所領の扱いを定めるとし、上洛・同行や本領・新恩・押領所について条件付きの対応を述べる。 久庵主をめぐる風聞、小田・多良木の処遇、京都への報告に触れ、明年正月十五日過ぎの菊池攻めの予定と別送書状の添付を伝える。
元禄十三年九月十四日 / 冊子 232–233頁/整理ID 798
進藤筑後守長房ら近衛家諸大夫が新納美作久珍へ、中将島津綱貴が亀姫と近衛家久の縁組を了承し、蓮光院から委細を聞いて近衛基熙・家熙父子が大いに喜んだと伝えた連署状。陽和院の意向も了承したが、公儀へ願い出る前なので正式な返書は遠慮し、蓮光院との対面で口上を伝えたため、その趣旨を心得るよう求める。
元禄十六年十月六日 / 冊子 443頁/整理ID 1517
進藤長房・今大路光好・進藤長之・今大路孝在が喜入安房・新納市正へ、無上法院(常子内親王・基熙室と注)の一周忌に、御二所様が大徳寺へ香奠を進上した心遣いを右大臣が喜び、その旨を二人へ伝えるよう命じたと通知する。十月六日付。