島津義天譜
年月日未詳 / 冊子 323頁
伊作遠江守十忠が勝久の旧領を求めたことを発端に、妻子・叔父との関係、安鶴丸をめぐる動向、伊作方の策謀と麑島への移動を記す。
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年月日未詳 / 冊子 323頁
伊作遠江守十忠が勝久の旧領を求めたことを発端に、妻子・叔父との関係、安鶴丸をめぐる動向、伊作方の策謀と麑島への移動を記す。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
祝翁死後の守護職をめぐり薩摩・大隅・日向で反乱が続くなか、島津久豊が兵を整えて対処した経過を記す。貴久・安鶴丸らの一族関係を整理し、伊集院頼久方への軍事・政治対応を進めた。守護家の継承問題が三州の動揺と結び付いたことを示す島津義天譜記事。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
永享三・四年頃の島津忠国をめぐる動向をまとめた国史記事。廻氏との盟約、阿多某への書状、伊作庄大野などをめぐる阿多方との対立・攻撃を記し、伊作鶴丸、好久、樺山次郎、山田忠尚ら家臣への所領宛行と盟書によって味方を組織した過程を示す。
正月五日 / 冊子 174頁
年頭を祝い、十一月八日付の便りで新造の病気がなお治らないと知って案じ、薬も効きにくいようだが早い快復を願い、養生を怠らないよう重ねて勧めた。当地の春は穏やかで、自身の下向も近いとし、鶴丸の件は急使に託すとした書状。
正応6年5月24日(1293) / 冊子 453頁/原整理番号 14-4
平忠連が子息・彦鶴丸へ、先祖相伝の薩摩国指宿郡司職、田畠・山野・河海および開門新宮宮司職等を永代譲与した正応六年五月二十四日付譲状。関係する調度・証文類を添えて両職以下の所職・所領を引き渡し、以後は他者が妨げてはならないと定める。
天文二年十月廿八日 / 冊子 719頁
笠懸射手九名の交名と、各人十射の的中状況・合計を黒白の丸印で記した成績表。
現行年紀:永享六年十二月十二日 / 冊子 369頁/原整理番号 五九五/整理ID TMP-P03-NENE5-D0595
伊作安鶴丸から祢寝殿に示す契約の案で、三条の約束と神罰誓約を記す。 御大綱の時は身も大綱とし、身の大綱の時は御助事を預かると約し、天下転変にも御用に立つとする。大綱の具体的意味は未確定。 凶害が出来した場合は急いで申し披くことを挙げる。 違背すれば伊勢・熊野・八幡・天満・諏訪等の神々の罰を受けるとし、永享六年十二月十二日と記す。
正応六年五月十四日 / 冊子 376頁
薩摩国指宿郡の司職と井田・島・山野・河海、開門新宮宮司職などを、平忠連が子息彦鶴丸へ譲り、他人の妨げを退けて相伝するよう定めた譲状。
文永9年11月12日(1272) / 冊子 453頁/原整理番号 14-3
平忠成が嫡男・又二郎宗忠へ、先祖相伝の指宿郡司職、田畠・山野・河海、および開門神宮宮司職を譲った文永九年十一月十二日付譲状。関係証文を添え、所領の様体を書き記して譲与するもので、将来にわたり他から妨げられず知行するよう定める。本文後の系譜には女子から重秀・忠直へ続く線と、忠篤が幼名彦鶴丸、指宿郡司彦次郎、入道成笑を称したことを記す。
3月式部;17日申付・20日子刻発足/甲子4月2~3日到着注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の3/整理ID 501-3
樺山市郎・鎌田郷左衛門・川上平九郎・有馬藤太・井上直次郎ら、帰国を許可された者の名書。御用があるため来る廿日に急いで当地へ差し立てるよう命じる三月式部の書付で、名書は三列に二十六名を列記する。続く注は十七日に命じ、廿日子刻に発足するよう申し合わせたことと、甲子四月二日・三日に追々着いたことを記す。有川十左衛門には右かという原注がある。許可、急派の指示、発足時刻の取決め、到着の後記を分け、御用の具体内容や勤務地は補わない。
永仁元年九月晦日 / 冊子 376頁
笠崎の警固番役について、代官鶴丸が三箇月勤仕したことを島津忠宗が確認し、なお履行せよと命じた国分氏文書。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
年月日記載なし(文政5年吹上観遊一件の附書四) / 冊子 629~630頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0117
「覚写」と題する、No.1875吹上庭観遊一件の附書四。花壇・瀧見・諏訪・紅葉・楠木屋・御構・新茶屋の飾付を、床・棚・附床などの区分ごとに配列する。花壇茶屋には床の象略図、水晶玉の置物、棚の舞楽巻物に続き、鉄刀木軸盆・鶴丸硯・珊瑚珠を掲げる。瀧見茶屋は床の「御物敷」「志津」や養川院筆、白鳥の置物、棚の亀萬年茸、絵鑑「展玩如生」、南嶺筆、料紙硯等を記す。諏訪茶屋には吉長筆の鶴捉鷹、二階には銀鷹の香爐、紅葉茶屋には探幽筆の霊芝、淡路嶋の盆石、長崎から来た竹文具を列記する。茶所には定家筆の色紙、壺「千歳」、霰釜、縄簾水指、三嶋刷毛目の茶碗、星肩衝の茶入、堆朱香合を掲げる。楠木屋茶屋は雲雪筆の雪月花、八朔梅、藤棚の方の腰掛。御構茶屋は探幽筆の馬の絵、松の鉢植、雪芭蕉の御筆、冠の香爐・棚、新茶屋は伊川院筆の床飾りと、先年内献上の注を持つ「音呼」の置物を記す。床飾りの一部の原字・分節は留保する。配置表と筆の表示を保持し、すべてを当日の拝領品とは扱わない。年月日・署宛は本文にないため補わない。
(記事) / 冊子 172頁
頴娃忠永を祖として、その子孫の諸流を示した系図。忠方・忠光らの系統と、頴娃本地頭・指宿本地頭・指宿郡司などの称号・職名、太郎・平四郎・郡司小次郎・彦鶴丸などの通称を系線で結び、頴娃氏の一流と指宿地域の所職との関係を示す。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
本文年月日未詳 / 冊子 228頁/原整理番号 2
丹鶴叢書所収の蒙古襲来絵詞に描かれた、薩摩国守護の舎弟久長の手物兵船の旗を図示する。旗の十字・鶴丸などを島津家の紋と照らし、久親・久長の人物比定にも疑問を付す。
年月日未詳 / 冊子 899頁
北郷三久の幼名・通称・官途と、天正元年三月十日の出生、母が北郷左馬助忠孝の娘であることを記す。 北郷家の系譜上の位置と、後続する家督補佐・相続関係を理解するための基礎となる譜記事。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。