伊地知重行・有川貞政連署状
(慶長七年)十月六日 / 冊子 849-850頁
伊地知重行と有川貞政が、少将忠恒の上洛中の安全を祈るため、毎月諏訪大明神で神楽を行うよう依頼した連署状。十月から十二月まで三か月分の費用として八木五斗二升五合を送った。
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(慶長七年)十月六日 / 冊子 849-850頁
伊地知重行と有川貞政が、少将忠恒の上洛中の安全を祈るため、毎月諏訪大明神で神楽を行うよう依頼した連署状。十月から十二月まで三か月分の費用として八木五斗二升五合を送った。
十月十六日 / 冊子 90頁
伊地知重行・有川貞政が安養院に宛てた連署書。島津久儀の上洛中の祈念として、毎月大明神で神楽を行う立願に基づき、二月から十二月までの三か月分として八木五斗二升五合を届け、翌七日の吉日に神前で祈念するよう依頼している。
正徳二年八月三日 / 冊子 20頁/整理ID 59
安藤重行が薩摩守に、領知判物を頂戴したことと、四月十九日に名代が御前へ召し出されたことを祝し、以後も拝領の趣旨に従うよう述べる。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
享保七年八月十三日 / 冊子 581頁/整理ID 1452
将軍の機嫌がよく安堵したとの申越しを受け、紙面を通じてその趣を伝達し、承知したと返答する。
享保七年八月廿一日 / 冊子 583頁/整理ID 1458
将軍の機嫌伺いと品物一箱の献上について、申越しの内容を披露して承知したと返す。
享保七年十一月三日 / 冊子 594頁/整理ID 1488
将軍の機嫌がよいことを伝え、品物一箱の献上を披露して承知した旨を返す。
享保七年十一月十三日 / 冊子 596頁/整理ID 1494
将軍の機嫌伺いと参府・帰国の儀礼に関する申越しを受け、使者の披露と紙面の内容を承知した旨を返す。
享保七年十一月十八日 / 冊子 596~597頁/整理ID 1496
将軍の機嫌伺い、家督後の帰国に伴う御礼と近衛基熙の死去に関する見舞いを受け、披露して承知した旨を伝える。
享保八年二月十二日 / 冊子 606頁/整理ID 1523
改年の祝儀と年始御礼の規式についての問い合わせを受け、将軍へ披露した旨を伝える。
享保八年二月十八日 / 冊子 606頁/整理ID 1524
先月十日の東叡山御霊屋参詣について報告を受け、承知した旨を返す。
享保八年二月廿五日 / 冊子 606頁/整理ID 1525
先月十四日の増上寺御霊屋参詣について報告を受け、承知した旨を返す。
享保八年四月廿七日 / 冊子 614頁/整理ID 1546
翌二十八日の五時に登城し、婚姻の御礼を申し上げるよう三名連署で通知する。
享保八年五月十九日 / 冊子 616頁/整理ID 1552
今朝の馬二匹の献上を披露し、一段の御仕合いであると伝える。
享保八年六月廿四日 / 冊子 617頁/整理ID 1555
端午の御内書を渡すため、翌日の五半時に家来を登城させるよう求める。
享保八年十一月五日 / 冊子 632頁/整理ID 1594
将軍家への礼や公方の機嫌について伝え、海鼠一箱の献上と諸用の取次ぎに触れる。
享保八年十一月七日 / 冊子 632頁/整理ID 1595
公方の機嫌をうかがい、先月十四日の増上寺御霊屋参詣について伝える。
享保九年二月五日 / 冊子 641頁/整理ID 1622
改年の祝賀と公方の機嫌を伝え、参府が難しいとの申出を承知したこと、贈答品の取次ぎを述べる。
享保九年二月十八日 / 冊子 643頁/整理ID 1628
公方の機嫌を伝え、大隅守の鷹拝領に伴う御礼を受け、贈答品の取次ぎについて述べる。
享保九年七月十九日 / 冊子 661~662頁/整理ID 1676
五月八日の東叡山御霊前参詣についての書状を受け、取次ぎを承知した旨を伝える。
享保九年七月十九日 / 冊子 662頁/整理ID 1677
五月八日の東叡山御霊前参詣についての書状を受け、取次ぎを承知した旨を伝える。
享保九年十一月十三日 / 冊子 678頁/整理ID 1710
文昭院十三回忌の法事執行にあたり、使者を通じて香奠を増上寺へ奉納したことを受け、謝意を伝える。
享保七年八月三日 / 冊子 580~581頁/整理ID 1451
八朔の祝儀として使者が御太刀一腰と御馬代黄金十両を献じた件について、披露し、承知した旨を伝える。
享保七年八月十八日 / 冊子 582~583頁/整理ID 1457
御礼の書付を披見し、将軍の機嫌がよいこと、御馬・白銀・巻物の拝領とその御礼を披露する。
享保七年九月九日 / 冊子 584頁/整理ID 1461
将軍の機嫌伺いに関する書付を受け取り、その内容を披露して承知した旨を三名連署で伝える。
享保七年十一月五日 / 冊子 594~595頁/整理ID 1490
将軍の機嫌伺いへの返答と、翌年の参勤時期についての申し越しを受けて承知した旨を伝える。
享保七年十一月十八日 / 冊子 598頁/整理ID 1500
家督後の帰国と近衛基熙死去への弔意に際して書状・使者を寄せたことに謝し、将軍への披露と承知を伝える。
享保八年正月十一日 / 冊子 605頁/整理ID 1520
年頭の祝儀として太刀一腰と馬代黄金十両を献上したことを披露し、承知した旨を返す。
享保八年正月十一日 / 冊子 605頁/整理ID 1521
年頭の祝儀として太刀一腰と馬代黄金十両を献上したことを披露し、承知した旨を返す。
享保八年三月十四日 / 冊子 611頁/整理ID 1534
翌十五日は例月の御礼がないため、登城に及ばないと知らせる。
享保八年三月十七日 / 冊子 611頁/整理ID 1537
増上寺火消番を有馬玄蕃頭に代わって勤める旨を伝え、承知を求める。
享保八年五月廿七日 / 冊子 616頁/整理ID 1553
御修復があるため、翌二十八日と翌月朔日の例月御礼はなく、登城不要と通知する。
享保八年十二月十三日 / 冊子 633~634頁/整理ID 1600
公方の機嫌がよいことを伝え、鶴拝領の件を宿次で取り次ぐ旨を記す連署書状。
享保九年正月十一日 / 冊子 637~638頁/整理ID 1610
年頭の祝儀として使者が太刀一腰と馬代黄金十両を献じたことを喜び、その旨を伝える三名連署の返書。
享保九年正月十一日 / 冊子 638頁/整理ID 1611
年頭の祝儀として使者が太刀一腰と馬代黄金十両を献じたことを喜ぶ三名連署の返書。
享保九年正月十九日 / 冊子 639~640頁/整理ID 1616
公方の機嫌がよいことを伝え、昨秋の御暇に伴う銀・巻物の拝領と国許への無事到着を喜ぶ。
享保九年二月十八日 / 冊子 642~643頁/整理ID 1627
公方の機嫌を伝え、宿次での御礼と献上品の取次ぎについて述べる三名連署書状。
正徳二年四月十一日 / 冊子 7~11頁/整理ID 17
薩摩・大隅両国の郡別村数・石高と、日向国諸県郡内百六十四村、琉球国諸島の石高を列挙した領知目録。合計六十万五千八百六十三石六斗三升、別に琉球国十二万三千七百石を掲げ、松平正久・安藤重行が奉行として連署する。
享保七年六月三日 / 冊子 540頁/整理ID 1399
安藤重行・水野忠之・戸田忠真が、献上された縮緬五巻などを将軍家に披露したことと、その謝意を松平上総介へ伝える。
享保九年八月三日 / 冊子 665頁/整理ID 1681
八朔の祝儀として使者を通じて太刀一腰と馬代黄金十両を献上したことを受け、謝意を伝える三名連署状。
享保九年十一月四日 / 冊子 678頁/整理ID 1708
公方の機嫌伺いへの返書とともに、次の参勤は三月中に参府するよう伝える三名連署状。
建武三年二月七日 / 冊子 60~61頁/原整理番号 295
土持宣栄が、新田義貞方の伊東祐広らによる穆佐院攻撃に対し、一族とともに建武二年十二月末から翌年二月まで各地で戦い、肝付兼重方の城攻めや合戦で自身・子息・若党が負傷した軍忠を申告し、証判を求めた文書。建武三年二月七日付。
記載なし / 冊子 946頁/整理ID 3044
前年の家宣代替に伴い、先例どおり領地の御判物を改めるため、安藤右京進重行・松平備前守正久をその奉行とし、執政があらかじめ命を伝えたと記す。
延応元年8月11日、明和3年仲冬、寛永11年3月、天和元年11月12日、慶安元年閏正月24日、元禄2年、宝永6年7月13日、正徳元年10月9日、享保20年閏3月21日・23日、宝暦9年閏7月29日、宝暦7年4月12日、安永2年9月9日、安永7年正月11日・9月11日、天明2年正月11日、天明6年5月13日、天明7年5月27日 / 冊子 34~38頁/原整理番号 11
宮之原主膳通直家の略系図。『宮之原家譜』などを引き、畠山重忠の四男重俊、その子重弘が延応元年八月十一日に日州飫肥の宮之原へ下着し、地名を家号として諸県郡北郷を領したという由緒を掲げる。一方、重氏以前は系譜が欠け、古譜・文献にも確証がないため、伝承する「重」の一字を根拠に重氏を始祖としたとの考証を、明和三年に司譜官・息長清純が記す。重尚は福山氏からの養子で島津綱久の近習を務め、剣鱗紋を拝領した。重陳を経て江田国重の三男・重行(通貫)が婿養子となり、近習・船奉行・使番・御用人・山川地頭・組頭・勘定奉行を歴任する。通興は奥御小姓、郡奉行、高奉行、使番、江戸留守居、近習、側御用人、寺社奉行を務め、野田・大根占・頴娃の地頭となった。通直は目付・使番・御用人・寺社奉行・大御目付を経て、市来・伊作・高岡地頭、御勝手方家老・表家老に進み、天明七年に隠居した。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。
享保八年三月十一日 / 冊子 610頁/整理ID 1532
翌十二日の五半時に登城して参勤の御礼を申し上げるよう、三名連署で通知する。
享保九年九月十二日 / 冊子 674~675頁/整理ID 1699
継豊の帰国許可を受け、礼使を江戸城へ登営させて謝意を伝え、太刀・馬代などを献上した経緯を記す。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。