米良重良書状
文禄元年9月15日 / 冊子 595頁
米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。
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文禄元年9月15日 / 冊子 595頁
米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。
文禄元年七月十五日 / 冊子 31頁/原整理番号 242
米良重良が、家の系図を求められたため同姓同流であることを証する写しを送った書状。他見を慎み、後日の証拠とするよう申し含める。文禄元年七月十五日付。
元禄十一年春 / 冊子 61頁/整理ID 192
島津綱貴譜は、元禄十一年春に向井市之丞友貞を琉球国在番奉行とし、岩城仲兵衛重良・名越與右衛門時氏・内田十郎右衛門頼実・佐々木新右衛門綱貞・阿久根助左衛門良隆の五人を副役に付けたと記す。友貞らは元禄十三年夏、任を終えて薩州へ帰った。
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
明和元年 十一月十三日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 116/整理ID 116
従四位下源朝臣重豪を従四位上に叙する位記。勤仕・精誠・夙夜の奉公をたたえ、栄級を授け、主者の施行を命じる。明和元年十一月十三日付で、元年には朱印の表示がある。職仁親王の宣、藤原兼敦の奉、藤原持豊の行を記し、権大納言・権中納言等の官位と人名を列記する。さらに資枝らの請奉、中原師資の施行、摂政近衛内前・太政大臣(闕)・左大臣九条尚実・右大臣鷹司輔平・内大臣九条道前等の官職列記が続く。重豪への告、兵部少輔定治の符到奉行、大録・少録の欄、天皇御璽の枠と朱印の表示、日付、右中弁の記載までを含む。冊子三十一~三十二頁に続く。出典注は全上・正文在文庫。
年月日未詳 / 冊子 52~56頁/原整理番号 50
文亀四年二月の御屋形様の正八幡宮初社参について、十四日の鹿児島出立、十五日の社参・下向などの日程を記す。河上筑前守の先うちから各方の供衆まで、殿原・中間・小者の人数、太刀・槍・弓うつぼ等の武具、服装・馬具を列挙し、末尾に惣人数三百七十一人、伊地知越後守重實と記す。冒頭には文政十年に伊集院新之允本を書写した旨の注がある。
永正13年、天文11年、永禄10年11月23日、天正2年、慶長元年、慶長8年、元和8年8月10日、寛永元年12月1日、寛永2年2月20日、寛永11年1月3日、寛永20年5月8日、慶安3年7月16日、明暦2年3月、寛永3年6月9日、寛文6年7月2日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 9-1
鎌田政真の槿花の奇瑞に伴う朝顔二首の和歌を掲げ、鎌田家系を続記する。政春(治部左衛門尉)の系では、大炊助が島津義久の菱刈院馬越攻略に従い、永禄十年十一月二十三日に軍功を立てて戦死した。政在は嗣子のない大炊助の養子で、実は佐多久越後守の弟とされ、薩摩・大隅・日向三州および肥後・筑後・豊後六州の軍場に従い、向島地頭を長年務めた。後裔の政貞は鶴田地頭、政栄は平松・吉松・野田・小根占・大姶良・田代・田布施の地頭を歴任して明暦二年に御使役となり、国治は比志島義之の養子となった。各人の出生・死没・法名、婚姻、早世記事も収める。