渋谷重聡起請文
文明十三年八月 / 冊子 499頁
渋谷重聡が、三か国の変転時にも親類への忠節を守り、外部の事を隠さず、讒言・凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った起請文。
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文明十三年八月 / 冊子 499頁
渋谷重聡が、三か国の変転時にも親類への忠節を守り、外部の事を隠さず、讒言・凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った起請文。
延徳四年三月一日 / 冊子 559~560頁
渋谷重聡が入来院関係の田地について、村・門などの所在、各筆の面積、耕作する作人、年貢・所当額を対応させて列挙した注文。末尾では各項目の数量を集計し、領内の田地規模と徴収すべき所当の総額を示す。
年月日未詳 / 冊子 563頁
足利義材が防州山口へ下り、大内義興が近国の軍兵を催促した際、入来院重聡は薩摩国内の争乱のため招集に応じられなかったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 818頁
天文十三年夏、山田加賀守忠廣の所領処置と肝付忠功との関係を発端に、入来院重聡ら周辺勢力が介入した経過を記す。所領をめぐる交渉が諸氏の離合集散を招き、各地への出陣と戦闘へ発展して、島津貴久方の領国統制問題となったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 819頁
入来院石見守重聡らが郡山庄へ進出したことから始まる争乱を、箕輪伊賀が回想した覚書。伊集院・蒲生・加治木・本田諸氏がそれぞれ軍勢を動かす中、貴久方の忠臣らが城・要所を防ぎ、敵勢の侵入を退けて地域を鎮定した経過を記す。
寛正三年三月廿四日 / 冊子 442~443頁
島津立久が入来院殿へ、世上が変転しても子孫に至るまで頼み合い、和議を害する者が現れた時は心底を残さず申し合わせることを誓い、違反時の神罰を掲げた契状。
寛正三年三月廿四日 / 冊子 443頁
島津立久が入来院殿へ、島津庄薩摩方の火同・永利・山田城を宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 715頁
島津義久の通称・官位と、天文二年二月九日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
島津義弘の初名忠平、通称中務少輔・又四郎・兵庫頭、位階・官職と、天文四年七月二十三日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
巻一/冊子 7~8頁
天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊・樺山善久・蒲生宮内大輔らが奮戦して勝利した。入来院重聡も援軍を率いて来陣し、佐多・頴娃・蒲生・種子島・肝付・禰寝・伊地知ら諸勢力が加勢した。続いて伊集院忠明らの調略により串木野城・市来本城が帰順する。敵方の新納常陸守らについて忠良は、実久の暴虐に従っただけとして護送・保護を命じ、恩をもって怨みに報いたと評価する。