伊地知重治証状
文禄五年五月四日 / 冊子 23頁
伊地知重治が伊地知周防介へ、島津家の祝儀に関する役を命じられた際の入具と包丁人の進退について、先例に基づく権限関係を説明した証状。入具は周防介が扱い、包丁人への下知や分別は場合に応じて行うが、包丁人一人の裁量で調進した時はその者の進退とするなど、私意ではなく旧儀によるものとした。
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文禄五年五月四日 / 冊子 23頁
伊地知重治が伊地知周防介へ、島津家の祝儀に関する役を命じられた際の入具と包丁人の進退について、先例に基づく権限関係を説明した証状。入具は周防介が扱い、包丁人への下知や分別は場合に応じて行うが、包丁人一人の裁量で調進した時はその者の進退とするなど、私意ではなく旧儀によるものとした。
元亀三年三月廿三日・五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
年月日未詳 / 冊子 760頁
文禄の役において朝鮮で戦死・病死した島津家臣を、死亡日とともに列挙する。伊地知左近将監重治、佐藤太郎五郎家元、土持三九郎清綱、津曲小左衛門兼祐、北郷讃岐守忠虎らの最期を記す。 合戦死だけでなく陣中の病死も含み、朝鮮出兵が島津家中に与えた人的損失を一覧できる記録。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁
寛永九年五月十三日、島津光久の女子が誕生したこと、母は家村重治の女で、後に入来院石見重頼の室となり、承応二年十一月二十日に早世したことを記す光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津光久の子女十四人について、生母・生年月日・没年月日・法名などを列記した譜記事。嫡子光久の出生と母系を起点に、忠良ほか男子・女子の系譜情報を記録する。
年月日未詳 / 冊子 685頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1754
島津綱貴が延宝五年十月十三日に江戸を発ち、家老島津久馮らを従えて伏見・大坂・海路・日向細島を経て十一月十六日に鹿児島へ帰着し、帰国御礼の献上を行い、使者入来院重治が時服を賜った経過を記す記事。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
元禄10年6月13日(記事)ほか / 冊子 346頁/原整理番号 130-34
河上仲之丞家通が、元禄十年六月十三日に市来源右衛門が鹿児島から文書一軸を持参し、長福寺で高岡諸家の系図・文書と照合した経緯を記した覚書。御用の品は鹿児島へ送ることとなり、河上家も文書一巻を提出したが、分国内に及ぶ大規模な調査のため返却の遅れや公儀での紛失を懸念し、本書を写して手元に置き、原本が失われた場合はこの写しを正本とする意図を明記する。続いて家通が元禄十二年二月六日に四十一歳で没し、法名を直心是道居士としたこと、十七代政補が天和二年九月四日丑刻に生まれ、母は春田喜左衛門重治の娘で法名を雪窓妙好大姉といい、熊次郎が早世したことを付記する。
年月日未詳 / 冊子 42頁/原整理番号 10
三河の居合師水野重治(柳滴)は寛陽公(島津光久)に招かれ、鹿児島で門弟を教えた。萬治二年七月十八日に伏見で没した後、水野流の形成と平田宗浄らへの伝授を顕彰する招魂墓の文。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
延応元年8月11日、明和3年仲冬、寛永11年3月、天和元年11月12日、慶安元年閏正月24日、元禄2年、宝永6年7月13日、正徳元年10月9日、享保20年閏3月21日・23日、宝暦9年閏7月29日、宝暦7年4月12日、安永2年9月9日、安永7年正月11日・9月11日、天明2年正月11日、天明6年5月13日、天明7年5月27日 / 冊子 34~38頁/原整理番号 11
宮之原主膳通直家の略系図。『宮之原家譜』などを引き、畠山重忠の四男重俊、その子重弘が延応元年八月十一日に日州飫肥の宮之原へ下着し、地名を家号として諸県郡北郷を領したという由緒を掲げる。一方、重氏以前は系譜が欠け、古譜・文献にも確証がないため、伝承する「重」の一字を根拠に重氏を始祖としたとの考証を、明和三年に司譜官・息長清純が記す。重尚は福山氏からの養子で島津綱久の近習を務め、剣鱗紋を拝領した。重陳を経て江田国重の三男・重行(通貫)が婿養子となり、近習・船奉行・使番・御用人・山川地頭・組頭・勘定奉行を歴任する。通興は奥御小姓、郡奉行、高奉行、使番、江戸留守居、近習、側御用人、寺社奉行を務め、野田・大根占・頴娃の地頭となった。通直は目付・使番・御用人・寺社奉行・大御目付を経て、市来・伊作・高岡地頭、御勝手方家老・表家老に進み、天明七年に隠居した。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁/原整理番号 25
大中様が清水にいた時、入来院・東郷・祁答院・肝付・蒲生の諸城主が謀って背き、吉田城を取る計画で忠元らを在番させたと記す。在番中はたびたび戦い、興慶寺前では忠元が大太刀で先に進んだが、馬場某も先陣を争った。敵方にも大太刀を持つ者がいたため、どちらが一番だったかを調べたという。このほか数年にわたって戦ったことを、六年弓箭と呼んだとしている。
目録年月日記載なし / 冊子 22~26頁/原整理番号 7
朝鮮出兵中の泗川戦や番船破船で亡くなった者と、その拝礼に列する子孫を諸士・郷士・家来などの区分ごとに列挙する。子孫不明・家断絶などの戦死者も別記し、泗川で戦死した市来家綱・瀬戸口重治と各子孫を挙げる。続いて妙谷寺での施餓鬼の勤行、僧二百人の賄い、位牌・供物などの手配案を記す。