面高連長坊朝鮮在陣日記
(慶長二年)七月廿八日~十二月十九日 / 冊子 412~435頁/原整理番号 67
面高連長坊による朝鮮在陣日記。慶長二年七月二十八日の固川・唐島付近での渡海と布陣から始まり、軍勢の移動、兵糧、攻城・合戦、使者や書状、傷病・戦死、天候などを日次で記す。泗川・晋州方面の戦況と撤収・帰国過程を経て十二月十九日に至り、のちの豊作を喜ぶ記事で結ぶ。『旧記雑録後編三』三四六・三四七号文書と同一との注記がある。
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(慶長二年)七月廿八日~十二月十九日 / 冊子 412~435頁/原整理番号 67
面高連長坊による朝鮮在陣日記。慶長二年七月二十八日の固川・唐島付近での渡海と布陣から始まり、軍勢の移動、兵糧、攻城・合戦、使者や書状、傷病・戦死、天候などを日次で記す。泗川・晋州方面の戦況と撤収・帰国過程を経て十二月十九日に至り、のちの豊作を喜ぶ記事で結ぶ。『旧記雑録後編三』三四六・三四七号文書と同一との注記がある。
寛文元年十二月廿五日 / 冊子 112頁/原整理番号 25
慶長二年十二月二十七日の朝鮮在陣記事。島津義弘・忠恒らが泗川の新城へ移り、祝言の寄合を開いたことを記す。続いて蔚山の加藤清正の城へ明軍が大軍で押し寄せたとの注進を受け、陣中の諸大名や野村・毛利・伊東・秋月・高橋らに使者と書状を送った次第を伝える。末尾に年越しの年男の任命を記す。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。