島津惟新弘書状
久和歌九四慶長五年八月廿日 / 冊子 345~346頁/原整理番号 94
島津惟新の書状。濃州・尾州の境の防戦や伏見城攻めをめぐり、上方への出陣人数、伊勢兵部少輔の派遣、兵の配置と報告を指示する。慶長五年八月二十日付。
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久和歌九四慶長五年八月廿日 / 冊子 345~346頁/原整理番号 94
島津惟新の書状。濃州・尾州の境の防戦や伏見城攻めをめぐり、上方への出陣人数、伊勢兵部少輔の派遣、兵の配置と報告を指示する。慶長五年八月二十日付。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):慶長五年庚子五月二十七日 / 冊子 150頁/整理ID KW1-G000123
義弘公から太閤秀吉公の朱印の臨写を賜ったことを述べ、慶長五年五月二十七日に光岩寺明王院が投じた証帖を左に載せると記す。
天文12年3月27日 / 冊子 674~678頁/原整理番号 157-7
天文十二年三月二十七日、牛屎平次郎実元が『大平家覚書系図一通』として家の由緒を記した覚書を起点とする最終の系図記事。永禄五年に貞幸院司北原兼隆が早世した後、当家一族が忠平公へ奉公し、栗野へ移ったことを記す。後続の元秋・重綱らの条には、天正六年の日州高城での大友軍との合戦、肥前・筑州などへの出陣、義弘公の供奉、栗野・飯野・帖佐・加治木等への居住地の移動が記される。さらに元貞ら子孫の軍役や恩賞、嫁入り・養子・改名、子女の出生・没年を正徳年間まで書き継ぎ、末尾には系図の人名上の丸印と罫線が朱書であると注記する。天文十二年の実元覚書と後代の追記を一つの同時成立文書とみなさず、系図の記述として扱う。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):文禄元年夏/三月二十八日 記事内参照年紀:文禄元年夏 記事内参照年紀:三月二十八日 / 冊子 148頁/整理ID KW1-G000121
文禄元年夏、義弘公が薩隅日三州の兵を率いて朝鮮へ渡り、重張が家臣を従軍させ、その者らが軍務を勤めたと記す。 三月二十八日に義弘公から重張へ書簡が贈られたとして、その書を付す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同年九月三日 補記(正文と別層):(文禄四年) / 冊子 149頁/整理ID KW1-G000122
太閤秀吉公の台命により義久公・義弘公が命を下し、重張の旧領祢寢院を改め、薩州日置郡吉利郷などの地を与えたと記す。 伊集院幸侃・本田三清の証帖の目件を左に掲げる。
文禄3年2月27日 / 冊子 769頁
「本文書は八二〇号文書と同文につき省略」と注記され、本文は再録されていない豊臣秀吉朱印状。御文庫二十二番箱十二巻中の写しで、義弘公御譜には正文が巻本にあると記される。 内容確認にはNo.820を参照する必要があり、この頁だけでは命令の具体的用件や宛先を確定できない。
明治3年午11月知政所 / 冊子 770頁/原整理番号 986の1/整理ID 986-1
御軍神社の改造に伴い、社号を皇軍神社とし、武甕槌神・経津主神・橘正成卿・忠久公・忠良公・貴久公・義久公・義弘公・斉興公・斉彬公の十座を祭神と定める。皇国武道の祖神以下十座を祭祀するよう軍務局へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年午十一月知政所。
(慶長七年)三月七日 / 冊子 807頁
井伊直政書状の正文が存在することを示すが、本文は後掲No.2476文書と同文であるため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 822~823頁
忠恒は日本から航海して朝鮮の巨済島の陣に戻り、義弘と対面した。義弘に衣服二領・道服一領・帯二筋、大刀・脇差・馬代などを献上し、陣中での父子再会を記す。 その後、福島正則の船で西次郎四郎が到着し、左衛門大夫正則は四国陣へ向かった。義弘公の倉庫を巡る警備、熊川への出兵、鉄炮配備なども日付順に載せる。
年月日未詳 / 冊子 345頁
朝鮮から帰陣した島津忠恒(家久)らが筑前博多で毛利秀元・浅野長政・石田三成と対面し、名島の三成の旅館を訪れた記事。三成と島津父子との応対、義弘と徳川家康との交際に関する事情を記し、詳細は義弘公譜中にあるため略したとする。原文は義弘を「龍伯」とは記さない。
(慶長十一年カ)四月八日 / 冊子 65頁
島津義久(龍伯)と島津忠恒が連署し、侍の命令服従、武具の整備、殿役、喧嘩の停止、外城衆の地頭への服従、百姓の耕作時刻、普請・狩猟、服装・飲酒、出物などを定め、違反者には所領没収または成敗を科すとした掟書。本文は後編3 No.1955と同文のため省略されている。四月八日付で、慶長十一年かとの張紙があり、義弘公御譜には正文を市後崎長右衛門が進上したと記す。