浜田経重置文
二月十六日 / 冊子 325頁
二月十六日、浜田経重が家中に残した置文。公務の勤め、言動と礼法、争論回避、武士道、飲酒、奉公人への扱い、信仰、親族関係などの日常規範を箇条書きで戒める。
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二月十六日 / 冊子 325頁
二月十六日、浜田経重が家中に残した置文。公務の勤め、言動と礼法、争論回避、武士道、飲酒、奉公人への扱い、信仰、親族関係などの日常規範を箇条書きで戒める。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
十一月十二日、大友軍が島津義久の陣へ大軍で決戦を挑むと、北郷時久の子相久・忠虎が進んで戦った。北郷久盛は抜群の戦死を遂げ、村田経重・山中宗左衛門らも戦死したが、ついに大友軍を破り耳川まで追撃した。義久が深く賞し、京都へ伝わると飛鳥井雅継が書状を送った。
(天正13年)12月7日 / 冊子 135頁
伊集院忠棟が星野伯耆守へ、境目の陣での勝報を双方の慶事として喜び、今後も変わらぬ忠節を求めた書状。実信・経重との相談には疎意がないので安心するよう伝え、贈られた矢尻にも謝意を述べる。筑後方面の協力関係を維持するための軍事連絡である。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
天智8年10月、養老4年8月3日、天平9年4月17日、天長3年7月24日、貞観14年、寛平3年、天暦3年8月、天徳4年5月、延久2年、元弘3年、延文3年、貞治元年9月、応安4年・7年、文明11年 / 冊子 181~186頁/原整理番号 63
冒頭に『大河平系図ニハ』として、冬嗣以下の長良・良房・良相・基経の系線と養子関係に関する異伝を掲げ、続いて『藤原氏菊地系図』を展開する。天津児屋根命二十一世の藤原鎌足から、不比等・房前・真楯・内麻呂・冬嗣・良房・基経・忠平・師輔・兼家・道隆・隆家へ至る祖系を、官位・贈位・諡号・没年とともに記す。隆家の後裔では政則・則隆以下を掲げ、則隆を菊池領主とし、後三条院の延久二年に初めて菊池へ下向したとする。政隆・隆基・隆房以下から、保隆・経隆・経政、原田・天草・薩摩・村田・大河平・八代・佐野・赤星・西郷・平山・蛇塚・若宮などの諸流を分岐させ、官途・通称・婚姻・養子・家の継承を系線で示す。隆直の系では鷹羽を幕紋として『自是始大河平』と注記し、隆俊を大河平祖とする。武時は元弘三年に博多で戦死したとし、武光は南朝皇子良懐親王を将軍に奉じて少弐・大友らと戦い九州に勢力を振るい、貞治元年には九州惣司として下向した越前高経の二男氏経を撃退したと記す。武政は良懐親王を奉じて大明の聘使を通さず、今川了俊・大内義弘・足利義満らとの戦いを経て幸府へ退き、応安七年に降伏したとする。末尾は武朝・兼朝・持朝以下、為邦・為安・為光・為重らの近世前段の諸系線を掲げ、安光が文明十一年の重朝との筑後合戦で田尾美作守を討ち取って賞を受けたとの記事で終わる。
安永六年夏六月、前史は安永癸巳秋、後記は天明二年秋九月 / 冊子 527頁/原整理番号 1457/整理ID 1457
先に安永癸巳の秋、宣成殿を創建して講堂とし、この年の夏六月に聖堂奉行と講堂学頭を置いて諸生を教育させたと記す。癸巳は安永二年に当たる。聖堂奉行の注は山本傳藏正韶を補し、後に教授と改称したとし、講堂学頭の注は長崎鐵之丞通喬を補し、後に助教としたことを付す。毎月望日に聖堂奉行を府城へ召し、座之間で経書を講じ、重豪が臨席した。奉行に故がある場合は講堂学頭が代わるという注がある。大目付以上は皆進んで席に着き聴講し、側用人・近習役は左右に侍した。江戸へ赴いた時にも梅之間で同様に行ったと記す。後記は天明二年秋九月に訓導師・句読師をさらに置き、教導の補助としたことを載せる。