川上忠智・新納長任連署書状
三月十八日 / 冊子 69頁
川上忠智と新納長任が、長野織部佑に翌日高原へ赴いて京衆を取り持つよう求めた連署書状。隈内で問題が起きないよう随時出向き、馬・人夫を飯野公領から手配し、小林への通路にも配慮するよう指示する。
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三月十八日 / 冊子 69頁
川上忠智と新納長任が、長野織部佑に翌日高原へ赴いて京衆を取り持つよう求めた連署書状。隈内で問題が起きないよう随時出向き、馬・人夫を飯野公領から手配し、小林への通路にも配慮するよう指示する。
二月九日 / 冊子 107頁/原整理番号 168
川上久国・三原重庸が山田有栄らへ、琉球から戻った竹之下善左衛門尉・蓑田五兵衛尉が持参した書状を送り、琉球船は正月九日までは帰朝していなかったとの報告を伝える。人数の渡海や箱の送付も相談する。B列は書状成立日の二月九日のみとし、正月九日は引用情報として分離する。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。
慶長五年五月廿二日 / 冊子 546~547頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署し、財部日光神社の神領について、竹之下・大坪・霜月田・中島・彼岸田・坂之下・山下などの田畠ごとの面積・分米・耕作者を列記する。合計一町五段四畝十五歩、分米二十石六斗六升七合を年中祭礼のため怠りなく納めるよう大宮司に命じた証状。
年月日未詳 / 冊子 776頁
吉満忠興流の系図。久景が滝ケ水で逆風に遭い溺死したこと、忠秀以下の家系、溝辺士竹之下氏や横川士森山氏から経資らを養子に迎えた経緯を記す。