木脇祐盛届書
享保八年三月 / 冊子 608頁/整理ID 1529
木脇祐盛が、佐土原の家督や分地について、大隅守家に男子がない場合の取扱いと、淡路守家の相続・御留守居からの問い合わせを報告する。
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享保八年三月 / 冊子 608頁/整理ID 1529
木脇祐盛が、佐土原の家督や分地について、大隅守家に男子がない場合の取扱いと、淡路守家の相続・御留守居からの問い合わせを報告する。
享保八年三月二十日 / 冊子 608~609頁/整理ID 1529
木脇祐盛が、佐土原家の家督と分地をめぐり、淡路守家の子を養子として立てた経緯や、幕府へ差し出す書付の趣旨を口上として説明する。
享保八年三月二十日 / 冊子 609~610頁/整理ID 1529
木脇祐盛が、佐土原の分地・家督をめぐる申請の先例を調べ、林大学頭や大玄院らとの相談を踏まえて、口達と書付をどのように幕府へ差し出すかを論じる。
(寛保三年)八月十日 / 冊子 316頁/原整理番号 87-2
木脇祐盛が大島代官日高次左衛門へ、先の流人配流命令に従い小家・囲い・番所などを船便到着前に整えるよう申し渡す。喜界島には別途連絡する旨も記す。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
享保八年三月 / 冊子 608頁/整理ID 1529
親番号の独立本文はなく、木脇祐盛の届書と二通の口上覚を収める集合資料。佐土原・淡路守家の家督、知行・分地、当分養子などをめぐる申達を扱う。
年月日未詳 / 冊子 207頁/原整理番号 73
平清盛―重盛―資盛を祖系とし、実盛・国盛、時盛、存盛・兼盛以下へ続く古佐多氏の系図。時盛は伊豆守・野上田・伊予坊と記され、百引知行のため初めて当国へ下向して建部へ改姓したとする。存盛は父から佐多を譲られて佐多を号し、成盛は田代を譲られて田代二郎、さらに祢寝三郎を号して祢寝院を領した。久秀は宇治川で戦死して後継がなく、兼盛ら兄弟はそろって鎌倉へ上り各々定紋を賜り、兼盛は五梅鉢に上二引の紋を拝領したと記す。
年月日未詳 / 冊子 510~513頁/原整理番号 26
桓武天皇―葛原親王―高見親王―高望親王から平氏諸流を展開し、良望・良将・良兼・良繁・良文の系、忠頼・将常以下の各地の祖、北条四郎大夫時家から時綱・時兼・時政・義時・泰時・時氏らへ続く北条系、惟衡―正度―正衡―正盛以下の伊勢平氏系を並記した系図。忠盛には三十三間堂建立、清盛には太政大臣・厳島再興、維盛には新三位中将、資盛・師盛・清度らには位官を注記する。田代氏の直接の系統では、時盛が伊豆守として当国へ下向し、野上田伊予坊を引いて知行し、源氏から平姓へ改めて建部氏を号したとする。光盛―秀盛―久季の久季は上洛して宇治川で討死し、佐多家が断絶して守護領となったと記し、時盛―実盛―国盛以下から道清・以久・清久・久助へ至る。以久は法光寺を建立し、氏久から良院・鹿屋内高隈村の宛行文書を受けたとし、清久には串良知行などの文書、久助には『三ヶ国の大将軍として探題へ参上』との注記を添える。