島津忠恒書状
(慶長九年)四月一日 / 冊子 929頁
島津忠恒が島津左衛門久道へ、示現流兵法の文書を一度見たいと求め、自分は新参の学び手で十分に心得ていないと述べる。師匠として教えを受けることが差し支えないか尋ね、詳しくは面談するとした書状。
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(慶長九年)四月一日 / 冊子 929頁
島津忠恒が島津左衛門久道へ、示現流兵法の文書を一度見たいと求め、自分は新参の学び手で十分に心得ていないと述べる。師匠として教えを受けることが差し支えないか尋ね、詳しくは面談するとした書状。
年月日未詳 / 冊子 481頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1064
島津綱久が寛文四年四月十日に参勤のため国を発ち、西海を開帆して五月二十八日に江戸へ着いた。家老島津中務久茂が随行し、登営して将軍へ太刀一腰・馬代黄金十両・綿百把を献上した。また、この頃に家臣東郷藤兵衛重利に示現流剣術を学び、寝食を忘れて修練し、その玄妙を極めたと記す。
十二月廿二日 / 冊子 381~382頁
珍品ではないが茶碗三個を贈り、茶を点てるのに使えるだろうと述べる。また、示現流兵法を望んでおり相談したいとして、近ごろの稽古の様子を尋ねた島津忠恒書状。
二月廿八日 / 冊子 384頁
丸目一流の兵法を見物した結果、かえって示現流の頼もしさを確認したと述べる。示現流はなお秘すべきであり、丸目流にも深い鍛錬があるので心得て、早く来て話し合うよう求めた島津忠恒書状。
四月一日 / 冊子 388頁
示現流兵法について一か条の伝授を望むとの申し出を受け、自身は新参で十分には知らず、師匠と称するのも遠慮されるが、差し支えなければ伝え、詳しくは面談するとした島津忠恒書状。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
三月十七日 / 冊子 384頁
兵法について以前伝えたとおり厳重に秘密を守り、親しい者や稽古衆すべてに教えるべきではないと戒め、この兵法以外に頼るものはないとの覚悟を一層深めるよう求めた島津忠恒自筆書状。