親成書状
六月三日 / 冊子 524頁
長らく音信できなかったことを詫び、当地の弓箭の状況を尋ねる。豊州から使者があり、吉岡方との交渉を受けて上使成本が派遣され、入魂の首尾となったことを喜び、詳細は帰国する光明寺から聞くよう伝えた親成書状。
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六月三日 / 冊子 524頁
長らく音信できなかったことを詫び、当地の弓箭の状況を尋ねる。豊州から使者があり、吉岡方との交渉を受けて上使成本が派遣され、入魂の首尾となったことを喜び、詳細は帰国する光明寺から聞くよう伝えた親成書状。
(寛永十二年)十二月十四日 / 冊子 512頁
有吉英貴・長岡是季が、葦北郡湯浦の百姓源左衛門夫婦と益城郡矢部村の百姓源六が逃亡し、キリシタン穿鑿で薩摩領内にいることが判明したため、新納加賀守の使者を添えて三人を葦北郡へ返されたことへの礼を述べた書状。
延徳二年三月廿三日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
(慶長五年)十一月廿四日 / 冊子 619~620頁
本田少吉が勝一郎へ、扶持に関する音信がなく心細いこと、自身も山口勘兵衛方でいまだ堪忍して助丞の上洛と返事を待っていることを伝える。旅庵と狭い宿で寒さに難儀している近況を述べる一方、川上四郎兵衛・助七・久右衛門・東郷源六・進牟木彦兵衛らが無事であると知らせ、助丞が上洛すれば自分たちの下向も可能になるので急ぐよう求める。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
年月日未詳 / 冊子 625頁
敵が迫ったため亀井武蔵から鉄砲衆の加勢を求められ、浜之市衆らを派遣した。しかし到着する頃には味方勢が崩れており、後に亀井武蔵には野心があったと聞いたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 776頁
島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。
六月5日参朝から年末まで、明治2年己巳正月元日帰鹿までの家譜記事 / 冊子 576~577頁/原整理番号 749/整理ID 749
島津氏家譜から六月五日の軍装参朝・天杯、錦旗一流・剣一口・扇一本・反物一疋、御直衣・御擣帛各一領と金三万両の賜与を記す。西郷の伝言を受け忠義の出征を留め兵を北越と島津伊勢の関東軍に分け、八日に帰国後大兵を率い海路東行する命を受け、九日京都発・十四日鹿児島帰着とする。奥羽・北越の転戦、九月二十三日の容保父子の降伏、榎本らの函館での抵抗と海陸攻撃、春日艦将赤塚源六らの戦闘を叙し、艦長・兵士へ高三千三百石を三年の間下賜したと記す。八月の再徴命後、十一月九日に海路を進み十四日浪華、十七日京都へ入り、二十日拝謁して在京兵への賞労と勅書を受けた記事を続ける。十二月の天気伺い・暇乞い・参朝を経て、二十四日に浪華港を発ち、明治二年己巳正月元日に鹿児島へ帰ったとする。戦況・降伏・褒賞・旅程は家譜の叙述として記す。
年月日未詳 / 冊子 771頁/原整理番号 832
岩元源六と同宗兵衛の供夫各一人が高根に至ったと記す短条。到着者は両名に付く供夫である。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 485-1
『寛明日記』慶安二年八月二十五日条は、朝比奈源六・庄田小左衛門が伊達遠江守秀宗へ、先年勤めた公儀普請・役儀等の書付を送るよう求めたと記す。宇和島から届いた書付目録は両人から老中へ披露された。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
八月廿五日 / 冊子 383~384頁/原整理番号 485-2
伊達遠江守秀宗は、寛永十四年霜月から十五年四月まで、肥前国島原一揆に際して上使の船御用に船五十艘・水主千二百十四人を出し、飯米は公儀から支給されたと記す。ほか二か条は編者が省略する。
年月日未詳 / 冊子 169~171頁/原整理番号 513
串木野の肝付源六左衛門家系図。上世の出所は不明とし、僧元院・善行院・大仙坊・連光院を掲げる。大仙坊は本名を飛騨といい脇に居住、平左衛門は内之浦に居住したと記す。大仙坊に男子がなかったため休六を婿養子とし、以後、兼明(三左衛門)・兼次(五郎兵衛)から円次・仲七・三吉らへ至る母方・婚姻を列記する。
年月日未詳 / 冊子 777頁/原整理番号 846
正月二十三日の人数留として、舟乗廻の谷山大学左衛門尉主従三人、岩元清左衛門尉五人、岩元源六・宗兵衛各二人を記す。谷山組は正月八日に山川、清左衛門組は九日に小松原へ着き、源六・宗兵衛の各組のうち一人は二十二日に高根へ到着した旨を注記する。前文は十九日、続文は二十六日に載せるとある。
寛永15年正月5日 / 冊子 270頁/原整理番号 221
島原加勢のため召し立てる人躰二十八人に関する鹿児島賦所手形。今月九日に出水で集合させ、知行所・領主から鉄砲・弓などの道具、飯米・船賃を支給して送り出すよう指示する。寛永十五年正月五日付。
延徳二年三月廿三日 / 冊子 130頁/原整理番号 41
延徳二年三月二十三日の犬追物手組。殿十五疋、島津安藝守七疋、伊地知周防守六疋、五代助五郎三疋などの射手別犬数を記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を島津孫右衛門尉とする。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 380
喜入忠政の従臣から聞いた有馬原城落城時の薩摩衆の働きを記す聞書。同年二月二十九日に落城し、男女の大半が討ち果たされたとする。城攻めでは鹿児島の村尾三右衛門・友野七郎らが本丸の塀に乗り、弓で敵を射詰めて細川殿から称賛された。また新納加賀を先として鹿児島から十八人が城乗りで奮戦し、出水衆・大口衆各一人も知られ、軍法に背いたため一同が当初牢人となったという。後記は、天草へ従軍した老人伊集院与左衛門らから日帳・備立覚書を尋ねて後代の参考に一巻へ綴ったこと、樋ノ町与介が事情により長野六右衛門へ改名したことを記す。