坂元清長書留
年月日未詳 / 冊子 214頁/原整理番号 329
田布施郷坂元安右衛門清長の書留。田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に付き陣中で勤務した。諸所の衆は地頭に従って有馬へ詰め、戦功を挙げたが、鹿児島衆・外城衆は天草内高津浦の張番を命じられたため戦功がなかったという。有馬城落城の前後は船留が厳しく、その様子を知らなかったと記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
7 件 (全巻)/ 1–7件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 214頁/原整理番号 329
田布施郷坂元安右衛門清長の書留。田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に付き陣中で勤務した。諸所の衆は地頭に従って有馬へ詰め、戦功を挙げたが、鹿児島衆・外城衆は天草内高津浦の張番を命じられたため戦功がなかったという。有馬城落城の前後は船留が厳しく、その様子を知らなかったと記す。
年月日未詳 / 冊子 596頁/原整理番号 653
寛永十四年冬から十五年正月にかけ、肥前島原郷の百姓が有馬城へ籠ったこと、松平伊豆守らの催人・出陣、京都での籠城報知と田布施衆の動員を記す。
元禄十三年三月十三日 / 冊子 342~343頁/原整理番号 381-3
有馬山の戦いと名を残す心構えを詠む歌・教訓に続き、島原・有馬出陣の経過を記す奥書。寛永十四年冬に邪宗の土民が有馬城へ籠城し、薩隅日三州の士が翌十五年正月十一日に出陣した。田布施の地頭鎌田左京政高が京都勤務中だったため、田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に属した。諸所の衆は有馬で高名を挙げた一方、鹿児島衆・外城衆は天草高津浦の番を命じられて高名がなく、船留が厳重で落城前後の事情も知らなかったという。三月下旬に帰陣。坂元安右衛門尉清長が寛永十五年三月十一日に記し、破損したため孫の坂元七郎左衛門清愛が元禄十三年三月十三日に改めた。
極月2日(元久在判、年未詳) / 冊子 513~516頁/原整理番号 26-1
島津元久が田代殿へ、総国の大将軍として探題方へ馳せ参じるよう先日命じたのに辞退するのは分別がないと叱り、家格・人物・分限のいずれにも支障はないので早々に出立せよ、阿積谷殿を副将軍とすると命じた極月2日付書状。後半には田代氏の後続系譜を収め、元久代に河辺で36歳にて討死した人物と法名浄久、その子清玄以下、清久への田代六町分の譲与と元久判、清定の渡海、清光・立清らを記す。至清は忠昌代に加治木で36歳にて討死し、清千は勝久代に帖佐で47歳にて討死、丈清も勝久代に加治木で28歳にて討死したとする。清宣は豊久へ奉公を始め、清辰・清秀・清長・清良・清豊・清金・清房らへ続き、各人の通称・官途・生没年・法名・母方を付すほか、断絶した清安流を上田家が継いだこと、清次を田代伊右衛門の祖とすること、末尾では一人が吉川家の養子となったことを記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):文明十二年庚子二月二十七日 / 冊子 133頁/整理ID KW1-G000100
長兄國清の早世、豐清が統を継がなかったこと、清存・清常が家督を受けなかったことと清長の早世を記す。 忠清が父(本文名義「沙彌茂清・重清」)の譲を受けて家督となり、祢寢院と諸所の采地を継領したと記す。
年月日未詳 / 冊子 695頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1791
島津光久が鹿児島城下大火の報を受けて帰国暇を与えられ、延宝八年四月八日に江戸を発って美濃路・伏見・大坂・赤間関を経て帰国し、江戸・京都の関係者へ礼使と献上品を送った経過を記す記事。
明徳四年六月日 / 冊子 147頁
島津元久が段銭の額を定め、来る十一月までの調進と三度の催促を命じ、未進の場合は田数を取り放つことを定めた段銭請文。