刊本標題:沙弥行智讓狀案
文書日付:元徳二年十一月十九日 / 冊子 429頁/原整理番号 六六七/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0667
三郎次郎清武得分として光松名の田地・在家山野、松山塩入新開田、佐多西方三分・四段田、桑東郷武安名五分三等を譲る。鎮西御下知を添え、その他は先年の書置譲状の旨に任せた知行を記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
30 件 (全巻)/ 1–30件を表示
ページ 1 / 1
文書日付:元徳二年十一月十九日 / 冊子 429頁/原整理番号 六六七/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0667
三郎次郎清武得分として光松名の田地・在家山野、松山塩入新開田、佐多西方三分・四段田、桑東郷武安名五分三等を譲る。鎮西御下知を添え、その他は先年の書置譲状の旨に任せた知行を記す。
文書日付:元弘三年七月廿日 本文中の参照年紀:去五月廿五日 本文中の参照年紀:同廿六日以來 / 冊子 371頁/原整理番号 六〇一/整理ID TMP-P03-NENE5-D0601
大隅国御家人祢寢三郎次郎清武は、五月廿五日に武蔵修理亮英時誅伐へ馳参したと申告する。 同廿六日以来、着到を付したとして奉行所へ披露を求める。 建部清武の署名と「承候了」の署判を伴う。
文書日付:建武參年十一月廿一日 / 冊子 372頁/原整理番号 六〇四/整理ID TMP-P03-NENE5-D0604
日向国の凶徒伊藤の内左衛門尉祐廣・肝付八郎兼重以下の誅伐への御発向に際し、清武が軍忠を致そうと国富荘大田城へ馳参したと報告する。 奉行所へこの旨の披露を求め、末尾に「承候了」の署判を伴う。
文書本文の日付:元徳三年六月日 / 冊子 519~520頁/原整理番号 八二三/整理ID TMP-P03-TORIHAMA-D0823
大隅國祢寝三郎次郎建部清武が相伝証文に基づき、曽小河村弁済使職の宛賜を求める申状案。 証文の相伝と庄官等への訴申に触れ、当國御家人酒太夫入道門也の村押領を申し立てる。 道念の所持文書を退ける請求と、次第相伝証文・庄官等の文書に従う扱いを求める。 地頭押領について訴え、御領の知行と御年貢物の調進を願う。請願を裁定・実施済みとはしない。
建武三年正月十一日 / 冊子 646頁
世上の騒乱に際し、一門が一身同心となり、どのような事態でも聊かも隔心を持たないことを誓った建部清成らの連署契状。違背した場合は日本国中の大小神祇の冥罰を蒙るとする起請文形式で、清能・清種・清武・頼純・応恵らが連署する。
建武三年正月十一日 / 冊子 83頁/原整理番号 343
世上の騒乱に際し、建部清成・清能・清種・清武・頼純・道恵の一族六名が、一門一身として協力し、諸事を衆議で決し、異議を差し挟まないことを誓約した連署契状。違反者には日本国中の大小神祇・冥道の罰が及ぶとする。建武三年正月十一日付。
年月日未詳 / 冊子 331頁
薩隅往還の要害である薩川に奈良氏を置き、飫肥・田代・清武方面への便宜と加江田の藩屏・警固を担わせたことを記す。
目録年月日記載なし / 冊子 419頁/原整理番号 13
『日向記』から、今川播磨守の下向・在国、穆佐高城を開いての帰国、島津氏の山東出陣と清武城攻撃を引く。続いて「氏久」は元久の誤記と指摘し、伊東方の記録や穆佐三百町・池尻・白糸・細江の地名を照合する。
目録年月日記載なし / 冊子 419頁/原整理番号 14
『伊東氏古系図大和守結安伝』から、応永四年丁丑の日州清武合戦を記す短い記事を引く。前後の旧記と照らすための引用である。
目録年月日記載なし / 冊子 446~447頁/原整理番号 88
文安五年戊辰四月、伊東祐堯が清武を知行したことを記す短い記事。
目録年月日記載なし / 冊子 447~448頁/原整理番号 89
清武の祐行が死去した後、祐堯が清武を受け、木原・加納・船引・田野・今泉も知行したと記す。同年、島津殿との交誼を深め、九月に忠国が甲ノ浦から都於郡に着いた際に馳走し、犬追物を催したことを続ける。
文書日付:元弘三年七月 日 本文中の参照年紀:去五月廿五日 本文中の参照年紀:同廿六日以來 / 冊子 371頁/原整理番号 六〇〇/整理ID TMP-P03-NENE5-D0600
大隅国祢寢三郎次郎清武が、五月廿五日の武蔵修理亮英時追討と、同廿六日以来の着到を申告する。 先例に任せて覆勘状を賜り、向後の亀鏡としたいと申し上げる。 末尾に沙弥の「承候了」の署判が付く。
文書日付:元徳二年十一月十九日 / 冊子 429頁/原整理番号 六六八/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0668
橋口土蔵を三郎次郎清武の分とし、他の子らの競望を禁ずる。女房得分の倉・稲以下の進退と邊津賀に関する条に、当年納足三十余石と知行を記す。 女房存生中、邊津賀得分内から毎年麦二石・米三石を請け取る旨を記す。 亀壽力房の倉を佐藤三弥四郎等へ預け置く旨、他の子らの競望禁止、女房方および清武得分の所従の譲与を列挙する。その他は先年の譲りに任せて知行すべきことを記す。
発給/譲渡年紀:建武三年正月十一日 / 冊子 473頁/原整理番号 七三八/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0738
世上騒乱その他の諸事について、一門が一身同心となる旨を連署する。 異儀なく何事も申し談じて衆儀による旨を述べる。 背く者に日本国中大小神祇冥道の罰を蒙る旨を誓う。 建武三年正月十一日の年紀と清能・清種・清武・頼純・道恵・清成の連署を伴う。
文書日付:建武元年六月十六日 / 冊子 371頁/原整理番号 六〇三/整理ID TMP-P03-NENE5-D0603
雑訴決断所が祢寢院三郎次郎清武所へ牒を出す。 大隅国祢寢院南俣郡本内田園・光松名、佐多西方五分三、桑東郷武安名五分三などについて、当知行に相違があってはならないと命じる。 左小辨藤原朝臣と左小史高橋朝臣が署判する。
明応7年~宝暦年間(系中) / 冊子 518~528頁/原整理番号 27-4
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと、宗益が日向福島警衛、河辺野間名三百斛など合計六百斛余の領知と地頭職を得たこと、宗辰が朝鮮出兵で軍功を挙げたことを記す。宗重以後は綱久・綱貴らへの奉公、京都御蔵奉行、琉球在番、江戸供奉・茶屋勤、智尾権現社殿の修造、各村の地頭職・御目付役・小姓役などを詳細に列挙する。宝暦年間には琉球在番からの帰帆が暴風で損傷しながら帰着して賞された記事があり、別系には肥前島原の一揆時の動員、日向国真幸院吉田地頭職六百斛、家久看病、朝鮮軍功感状などが見える。鹿児島の大火で宗茂宅と家伝・武具が焼失した際、宗茂が官庫へ納めていた模写を根拠に証判・感状を再下付された経緯も記す。各人の生没年・年齢・法名、母・妻の出自、女子の婚姻、養子、分家、無嗣断絶を併記し、盈隆と養子・後裔までを収める。
文書日付:康永三年八月十日 / 冊子 376頁/原整理番号 六一六/整理ID TMP-P03-NENE6-D0616
病状により生存を期し難いと述べ、亡父行智の追善のため、清武知行田地内三段を僧斎料として寄進する。 いずれの田地を充てるかを相手の計らいに委ね、後日の証文とする。独立宛所の名は補わない。
文書日付:康永二年卯月十三日 / 冊子 372頁/原整理番号 六〇五/整理ID TMP-P03-NENE5-D0605
きよたけが「はゝ御せんの御かた」に、合戦へ出れば存命できるか不定として書き置く。 所領の譲与と後の惣領への返却に触れ、他人の所領となれば惣領職が狭くなるとして、よく心得て取り計らうよう求める。 具足・馬などの取り計らいにも言及する。
文書日付:康永二年十二月廿八日 / 冊子 376頁/原整理番号 六一五/整理ID TMP-P03-NENE6-D0615
相伝所領である大隅国祢寢南俣郡本内・光松名・佐多西方三分・桑東郷武安名の田地屋敷山野等を、調度・証文とともに舍兄祢寢殿へ譲る。 懐妊・産子に触れ「宜爲御計」と記す。母尼御前には一期の知行を認め、その後は永代領掌するよう定める。懐妊・産子句の主体と具体的権利関係は留保。
年月日未詳 / 冊子 361頁
伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥・曾井・清武を与えられ、本城へ移住したことを記す。日向南部で伊東氏の領地が再建され、北郷・島津方の旧支配地が組み替えられた九州仕置の具体例である。
寛永十二年十二月四日 / 冊子 506~507頁
壱岐右近将監幸光・川崎大学助祐宣・肥田木主馬佑重昌が島津弾正へ、キリシタン改めに伴う往来管理について志布志方面と相談したうえで、清武と高岡の間で同様の取扱いを定めるよう求めた連署書状。清武側では平渡長右衛門・田中四郎左衛門の印判により奉公人・町人・百姓以下を往来させ、高岡側も同じ定めとするよう求める。本文日付は寛永十二年十一月十七日で、索引の十二月四日とは相違する。
年月日未詳 / 冊子 525~532頁
綾・高岡・都之城・志布志・高城・清武・阿久根・加世田など多数の地域ごとに、人数・男女人数と鉄砲・弓・鑓・長刀等の武具数を系統図状に記した、境目地域の人数・武具注文。
貞治二年十月八日 / 冊子 75頁/原整理番号 330
一色範親が、清武城合戦で負傷しながら軍功を挙げた大脇四郎左衛門を神妙と賞し、その功を注進するとした感状。貞治二年十月八日付。
貞治四年八月十三日 / 冊子 75頁/原整理番号 331
足利義詮が、一色刑部少輔範親から注進された大脇四郎左衛門の清武城での功名を神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。貞治四年八月十三日付。
天喜三年七月廿五日 / 冊子 172頁/原整理番号 71
『上井伊勢守覚兼日記』天正十一年二月の狩りの記事。十八日に狩りのため加江田方面へ向かい、二十日には宮崎・清武などから集まった約七百人の狩人とともに狩りを行った。猪鹿九頭を得、覚兼自身も二頭を射たと記す。
目録年月日記載なし / 冊子 452頁/原整理番号 97
文明十三年六月二十八日の文言を引いて始まり、島津家の守護継承や立久・忠国の時代、伊東家との関係を旧記・系図と照合する。穆佐・佐土原・清武・門川など日向諸地の知行と戦闘、祐堯や義天に関する伝承を挙げ、史料の異同や後世の書写にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 420頁/原整理番号 165
天正八年の水俣御陣賦として諸地頭を列記する。清武の伊集院久宣、大口の忠元、羽月の猿渡掃部介、會木の新納治部少輔、平泉の伊地知重康、湯之尾の梅北國兼が載る。この間の十四・五人は省略されている。
巻六/冊子 88頁
関ヶ原合戦後、義弘が日向美々津へ帰着した時、伊東氏旧臣で清武の宰である稲津掃部助が黒田長政の命と称して兵を挙げ、穆佐城を奪おうとした事件を記す。稲津は使者が帰らないことを怪しみ、先に宮崎城を落として城代権藤平左衛門とその子らを討ち、穆佐内的野村へ侵入した。十月四日には穆佐城を攻めるが失敗して退き、追撃を受け、のち慶長七年に稲津父子三人が清武で処刑されたと注記する。後半では、加藤清正が小西行長領の宇土・八代を奪おうとしたため、小西美作守が義久へ救援を求める。義久は島津図書頭忠長・忠倍父子を水俣へ送り、佐敷浦で加藤方の井口伊賀介率いる船団と戦わせた。島津船の多くが散るなか、竹内備前守実房と甥納右衛門が小船で救援し、鉄砲を撃ち返して忠長父子を救った。関ヶ原後の日向騒乱と肥後水軍戦を併記する。
本文日付:暦應三年五月十三日 / 冊子 311頁/原整理番号 四三九/整理ID TMP-P02-NENE3-D0439
清武の桑東郷武安名内木作田薗等・孫次郎季宗死亡跡輩の押領訴えに関する書下を拝見したと請ける。 円妙は亡父時季の時から自身に至るまで季宗跡輩を全く扶持していないと述べる。木作居住と先々直に沙汰されたことを挙げて清武の訴状を返進し、その旨の披露を求める。
本文日付:元徳四年八月十五日 / 冊子 350頁/原整理番号 五四九/整理ID TMP-P02-NENE4D-D0549
佐多村西方の牛垣原について和与する。 三分領主清武と二分領主福壽丸の間で分け、境界を列記する。 東南原を三分内の知行地とし、今後は和与状を守るよう記す。