島津忠高略系
慶安四年三月四日 / 冊子 190頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0374
島津忠高(初名久英、国久、又四郎、飛騨守)の系譜と、慶安四年三月四日に武州江戸桜田で誕生したこと、母方の系統を記す略系。
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慶安四年三月四日 / 冊子 190頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0374
島津忠高(初名久英、国久、又四郎、飛騨守)の系譜と、慶安四年三月四日に武州江戸桜田で誕生したこと、母方の系統を記す略系。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
年月日未詳 / 冊子 59~60頁
島津家久が江戸桜田邸で徳川秀忠・家光を迎えるため大規模な造営を開始した記事。甲良豊後守が設計し、伊勢貞昌ら多数の奉行・監使・助役が、主殿・寝殿・数寄屋・料理所・門・舞台・楽屋・厩・庭園などの建築と点検を分担した。
年月日未詳 / 冊子 137~138頁
寛永七年四月十八日、将軍徳川家光が島津家久の江戸桜田邸へ御成した際の次第を記す。出迎え、座次、進物、能・音楽、饗応、退出時の拝領物、翌日の御礼までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 260頁
寛永九年四月朔日、島津綱久が江戸桜田邸で誕生したこと、母は家臣伊勢大隅貞豊の女であること、綱久の幼名・通称・官位と、母の没年・法名・牌所等を記す綱久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 484~485頁
七月十二日夜半、江戸桜田屋敷で火災が起こり、家久の夫人・幼子や女中を避難させ、宝刀・道具類も運び出したことを記す譜記事。類焼の範囲や消火、諸家からの見舞いにも触れる。
年月日未詳 / 冊子 738~740頁
島津家久の第三子忠直(北郷久直)が忠能の娘を娶って都城の北郷家を継いだ経緯を記す譜。家督相続祝儀への島津家久返書、江戸桜田屋敷火災への島津光久返書、帰国前の酒井忠利・忠吉書状を収める。
年月日未詳 / 冊子 739~740頁
江戸桜田の島津屋敷火災に際して北郷久直が急使を送り、島津光久が被害と無事を報じた返翰、久直の帰国前に酒井忠利・忠吉が贈った書状を収める譜。
八月廿六日 / 冊子 739頁
江戸桜田屋敷付近の火災を船中で聞いた北郷久直が飛脚を送った配慮に謝し、光久の近辺から出火して家財をほとんど運び出せず、正宗父子や馬廻衆も類焼したが、上下に死傷がなかったことを喜んだ島津光久書状。
巻七/冊子 104~113頁
寛永七年四月、将軍家光と大御所秀忠が江戸桜田の家久邸へ相次いで御成した際の記録抜書である。十八日の家光御成では、古田織部の指図を写した数寄屋で茶を供し、楚石の掛物、平野肩衝、高麗茶碗、利休作茶杓、信楽水指、車軸釜などの道具を列挙する。鎖の間・御寝殿・書院・会所・湯殿に至るまで、床飾、絵画、香炉、硯、筆架、違棚、台子、弓矢・甲冑・鏡、花入と池坊の立花などを図とともに詳細に記す。家久・嗣子又三郎(光久)・又十郎・越後守らは刀剣・小袖・銀・生糸・馬などを拝領し、将軍へも正宗・左文字等の刀剣や小袖・黄金・馬を進献する。家臣も縁側で礼を行い、島津一門・重臣への拝領品が個別に記録される。会所では能八番と乞能が催され、役者への小袖・金銭の配分、式三献・七五三の膳が整えられた。さらに琉球から美麗な少年楽人を呼び、琵琶・琴・三線・笛・鼓などによる異国の音楽を奏し、家光を喜ばせた。二十一日の秀忠御成も同様に茶・饗応・能・琉球楽が行われ、拝領・進献品と参加家臣が記される。近世初期大名邸の最高格式の接遇、茶の湯・室礼・能・琉球文化の政治的演出、将軍家と島津家の贈答関係を具体的に復元できる儀礼資料である。