今川了俊書状
永和元年8月10日 / 冊子 50頁/原整理番号 49の3
今川了俊が島津越後守に、参会の遅延を詫びつつ、錦の直垂は先代一代の免許であっても子孫が相続でき、大御用には着用してよいと伝える。一方、御旗は陣中で一流以外を用いず、所持しておくよう指示する。
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永和元年8月10日 / 冊子 50頁/原整理番号 49の3
今川了俊が島津越後守に、参会の遅延を詫びつつ、錦の直垂は先代一代の免許であっても子孫が相続でき、大御用には着用してよいと伝える。一方、御旗は陣中で一流以外を用いず、所持しておくよう指示する。
記事成立日:未確認 / 冊子 67頁/整理ID KW1-G000053
下巻一軸の正文献は氏久公の簡牘から始まると述べる。 清有の多歳の軍労と功に対して修理亮氏久公から賜った簡牘は多いが、年号を記さないため事実の検討が難しいと説明する。 その他の書牘も同様であるとして、件々を後掲する。
記事成立日:未確認 / 冊子 190頁/整理ID TMP-P02-CONT-A48
島津氏久公の在判の書を以下に掲げる導入記事。
元禄8年2月16日(目録) / 冊子 542頁/原整理番号 85
氏久公・久豊公・忠国公・立久公らの御茶毘所がどこにあるかを照会する。
元禄8年3月5日(目録) / 冊子 543頁/原整理番号 87
氏久公について、先の書付と同断である旨を記し、志布志大慈寺の座印を付す。
年月日未詳 / 冊子 555~557頁/原整理番号 5
平山氏の略系図。石清水八幡宮の検校祐清・清成らから平山氏諸流へ至る系譜を掲げ、帖佐に関わる人物の法名、所領や城、島津氏との関係を傍注する。
弘仁3年4月、建久4年、建久9年、建長3年3月10日、応永年間 / 冊子 186~188頁/原整理番号 64
『藤原姓相良氏』と題し、入来家士・種田小仲蔵に伝わった相良氏系図。藤原南家の武智麻呂から乙麻呂・是公・雄友へ続く祖系と、弟阿・高扶・兼輔の系、維義・為憲以下の工藤氏系統を示す。為憲を工藤と号した遠江権介とし、時理・維景・時信ら駿河守の系を経て、維職を伊豆国押領使で工藤・伊東・林・狩野等の先祖とする。維清から入江原・船越・岡部・野辺・蒲生等、維遠から白尾等の諸流を分け、維頼―周頼を相良荘に結び付ける。光頼・頼広・頼繁・頼景を経て、長頼は相良三郎を称し、建久九年に球磨郡人吉へ住み始め、建長三年三月十日に没したと記す。頼親・頼平・宗頼・頼総以下から山北・山井・内田・高橋・多良木・佐牟田・上村・稲留・岩崎・窪田・黒肥地・肱岡などの諸家を分岐させ、頼氏・長氏・頼実・定頼以下について複数の異系譜を併記し、『是違重而可糺』と再考を促す注記を付す。後半は蘭牟田・薩摩瀬・村山・荒瀬・鶴田・竹下・西橋・蓑毛・深水・今村・丸目・丸野・青井・小垣などの庶流を掲げ、氏久公代の実長、応永年間・元久公代の祐頼、実続・長定・為続・治頼・長毎・長聖・長唯へ至る官途・実名・家系を記す。
正徳二年四月朔日 / 冊子 1頁/整理ID 1
島津久明ら家老五名が、志布志即心院には島津家六代太守氏久公とその御簾中の石塔・位牌が安置され、寺領十五石が付されていることを確認する。寺領が悪地で年貢が十分でなく仏供・寺役にも支障があるため、怠慢なく仏供を備え如法に勤行するよう山西堂へ命じた連署証状。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 49の6
伊地知季安が、式部常陸守友久による応永六年三月二十一日の寄進文を挙げる。二親道慶禅門・通長禅尼の菩提料として、鹿児島給分小牧の中牟田二段を福昌寺に寄進したもので、友久は元久公の時代の人物を氏久の時代と誤伝したのではないかと考える。松齢公(島津義弘)の御書は後に載せるとし、永和三年二月二十五日の氏久公簑原合戦について聖栄自記の記事を続掲する。