島津国史
年月日未詳 / 冊子 65頁
『島津国史』が、今川了俊の九州下向後に展開した軍事行動を背景として、島津氏久・資久方の諸将の戦いを記す。山田友久・北郷弥次郎らの出陣、梶原氏との衝突、各地での攻守と戦死者を挙げ、島津方の戦線が広がった経過をまとめる。
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年月日未詳 / 冊子 65頁
『島津国史』が、今川了俊の九州下向後に展開した軍事行動を背景として、島津氏久・資久方の諸将の戦いを記す。山田友久・北郷弥次郎らの出陣、梶原氏との衝突、各地での攻守と戦死者を挙げ、島津方の戦線が広がった経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 475~476頁
『島津国史』が、文明五年に島津立久方で行われた犬追物と家臣の参加を記す。あわせて将軍足利義尚による来迎寺領寄進、梶原氏の系譜・所領継承、寺院への寄進と契約文書を掲げ、武家儀礼・幕府関係・地域所領の動きを編年で整理する。
六月廿日 / 冊子 477頁
琉球王尚円が島津氏からの太刀などの贈物に謝意を述べ、上洛の遅延や京都での用件、梶原氏に関する取次などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 477~478頁
文明六年、島津久逸(円室公)が元服して又三郎を称し、伊作家の家督を継いだことを記す。梶原氏を含む一族・家臣との関係、伊作家の系譜、所領支配の由来と継承を整理し、久逸が一門の当主として成立した後の家中構成を示す国史記事。
「大永六年」六月十一日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、末吉・肝付方面と三俣の急変を知らせ、豊州方の参会、伊地知・梶原・池袋方による垂水攻撃、境目への足軽派遣を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 51~52頁/原整理番号 49の8
季安が月・杉の軍勢と『太平記』の十五夜・月弓の記事を引き、五手に分かれた陣編成を考証する。新納殿を越後守実久とし、その手に御一家の衆、杉の手の大将本田信濃守重親に地家の御内衆が付いたと解する。北原を梶原氏とみなし、左近尉の御幡指に関する記載と結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 366頁/原整理番号 166
惟宗姓大寺氏について、保音(弾正忠入道幸阿)・武幸から元幸、義幸、清幸、高幸、資保、衡幸らを経て近世の後裔へ連なる系図。元幸を島津元久の家老、衡幸を島津久豊の家老と記し、美作守・紀伊守・兵部少輔・治部少輔などの官途と幸善・幸栄・応正・幸朝・幸祐等の法名を添える。衡幸流の宗二郎が梶原氏の養子となったこと、兼幸流と公幸流の房太郎・彦二郎・千代若丸らの分岐も示す。
寛正六年二月二十九日 / 冊子 70~80頁/原整理番号 17
寛正六年の島津立久と日向の御前の婚礼役人・儀礼を記す新納家の覚書を起点に、立久・忠昌の配偶関係、伊東・梶原・新納・禰寝・島津一門等の婚姻、系譜、居城・所領を諸記録と照合する。後半では秦姓・八幡信仰、串木野氏、禰寝茂清・忠清らの系譜と事績にも及ぶ。
本文年月日未詳 / 冊子 230頁/原整理番号 6
梶原景時の後裔とする左近允・北原氏の系譜を引き、氏久の軍旗を預かった者、戦死と旗の奪回、子孫への役目の伝承を示す。季安は諸記録との照合を試みる。
建久4年5月29日(1193、5月11日・13日の記事) / 冊子 425~426頁/原整理番号 11
富士野御狩について、横沢辺へ向かう命令、駿河国浮島原から富士山麓へ至る景観、諸国・諸氏から選抜された射手と騎馬の編成、狩猟当日の大群集を記した建久四年五月二十九日付抜書。五月十一日午刻に浮島原へ着き、同地を烈獵五年に湧出した希代の名所と説明し、東西南北の地勢や六王子宮居御座平を詳述する。十三日卯刻には二万一千余騎が横沢辺へ向かい、千葉・足利・畠山らが八か国から勝れた射手を選び、近江・信濃、上総・下総をはじめ多数の武士を三番・二番等の射手組に編成した。同日辰刻、富士山水精嶽東宮南大鳥居原は馬を立てる余地もないほどの大勢で満ち、騎馬の者が逸物を競い、草葉を分けて猪・鹿を追う情景を記す。藤原正行が梶原殿へ進上した文書で、末尾注記は射手組二番に大平薩摩四郎が含まれるため、渕辺家の先祖との見合い用に書写して置いたと説明する。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁/原整理番号 33
『上世略』として梶原太郎を号した景久から景長へつなぎ、景時・景季・景高・景茂らの諸流を展開する梶原景久流系図。景久流と、兼純・滋純・助純・信純・義純・重純・政純らの系線を掲げ、北原弥次郎の称号、薩摩国日置、鹿児島城・別府での討死、官途・法名・嫡子・次男・養子関係を記す。吉田上村、島津式部亮、三俣中野、伊地知、玉利・迫田、伊集院野田など諸家との婚姻を列記し、僧慧原・僧超慶・僧祐寿ら出家者も収める。左注には文明六年の『行脚雑録』に梶原主計が見えること、伊地知尾張守重秀の妻が梶原氏女で、天文三年閏正月七日に没し法名を秀窓妙用大姉としたとの記事を掲げ、墨色の違いと続筆関係も注記する。
宝永七年秋(序)、文治二年八月一日・文和三年十月二十一日(由緒中記事) / 冊子 496~497頁/原整理番号 22
宝永七年秋、酒匂氏の由緒と散逸した家譜の復元方針を記した序。酒匂氏を桓武平氏の流れとし、梶原権大夫景道―景久・刑部丞朝景へつなぎ、朝景が源頼朝から相州酒匂荘を賜って酒匂を称し、島津忠久に仕えて薩摩・大隅・日向守護職補任に伴い文治二年八月一日に薩州山門院へ下向、子景貞も従ったとする。豊州宇佐八幡宮参詣時に青銭二片を得て家蔵したこと、頼朝から賜った御母衣を源左衛門尉家に伝えたこと、後に薩州高江へ移住したことを記す。文和三年十月二十一日の知色城攻撃では一夜奮戦して討死した者、安国寺住持となった右馬入道らの軍歴・出家も挙げる。総州家没落時に系図・文書が散逸し、総州家と奥州家の系図が食い違ったため、旧記・兵書・家伝・坊津一乗院の梶原氏系図を比較し、新左衛門尉景安以後の伝承を加えて復元したと説明する。
本文年月日未詳 / 冊子 230~231頁/原整理番号 7
『諸家大概記』から梶原氏・宇宿氏などの由緒と旗役の伝承を引く。北原・大迫・左近允の名乗り、平姓、氏久期の軍功を照合し、家筋と役目の継承を考証する。
目録年月日記載なし / 冊子 463頁/原整理番号 110
「伊東系図祐國妹」と題し、島津忠昌の母を伊東祐國の妹・梶原氏の娘とする諸系図の記述を比べる。忠昌の寛正四年五月三日生誕や立久と伊東家の縁組、新納家との関係を挙げ、系図の異同を検討する。
年月日未詳 / 冊子 908~909頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2478
島津光久の遺体を十二月朔日黄昏に福昌寺へ移し、十九日に客殿へ安棺して法筵を営む。綱貴の祭文・哀悼、葬礼の供奉者と役割を記し、葬馬二匹とその担当者を挙げる。綱貴が神主を持って棺前に列し、福昌寺壽山和尚の下炬文を経て火葬し、諸宗七百五十人が読経する。二十一日に綱貴が葬地で燼骨を収め、その後の中陰法会、一族・家臣の祭文献呈を記す。