島津日新譜
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
14 件 (全巻)/ 1–14件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
No.1856と同日の犬追物について、別の初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十三年五月廿八日 / 冊子 610頁
永正十三年五月二十八日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十四年九月十六日 / 冊子 615頁
永正十四年九月十六日の犬追物について、二日二番の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 714~715頁
天文二年、南郷で伊東勢と戦った島津忠朝方の攻防を記す国史記事。桑波田孫六・波田式部少輔らの働きと戦死、翌年の高城攻略、勝久方との対立、梶山・勝岡・山之口の攻略を諸記録・系図から集成する。南郷戦から庄内方面の城郭制圧へ至る戦線を追う。
年月日未詳 / 冊子 750頁
天文五年九月から十一月、伊集院忠朗を大将とする軍勢が大田原の柵や橋をめぐって夜襲・放火を行い、敵兵を討ち取った戦闘を記す。
永正十二年五月廿九日 / 冊子 137頁/原整理番号 60
永正十二年五月二十九日の犬追物手組。島津太郎左衛門尉・島津助六・税所左衛門尉・桑波田孫六・加治木刑部少輔らの射手を列記し、検見を加治木筑前守、喚次を伊地知四郎左衛門尉とする。
永正十三年 / 冊子 138~139頁/原整理番号 65
永正十三年と記す犬追物手組。島津殿・廻兵部少輔・本田三河守・桑波田孫六・税所左衛門尉らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を加治木筑前守とする。本文に月日は示されず、犬数もない。
永正十六年八月十日 / 冊子 140頁/原整理番号 70
永正十六年八月十日の犬追物手組。島津殿・廻兵部少輔・本田三河守・桑波田孫六・平田五郎左衛門尉らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)・島津左衛門尉、喚次を加治木筑前守とする。射手別犬数は記さない。
巻一/冊子 5~6頁
勝久方へ転じた知覧・川辺の兵や桑波田孫六らに対し、忠良が宴の隙を突いて南郷城を奪い、永吉と改めたことから始まる。勝久が忠良討伐を企てると園田五郎兵衛尉が密告し、貴久は永吉城へ入り、忠良も田布施から急行して守った。帰参した山田式部少輔は過去の背反を後世への戒めとするため伊作で処刑され、漢高祖が丁公を斬った故事によって正当化される。後半では、勝久が末弘伯耆守ら佞臣を重用して政治を乱したため、川上大和守ら旧臣十六人が諫書を出し、末弘を谷山皇徳寺で討つ。勝久は首謀者の川上を殺すが、実久も勝久に背き鹿児島を焼き、勝久は帖佐・祁答院・北原などを経て豊後へ出奔したとする。
永正十二年二月七日 / 冊子 135頁/原整理番号 55
永正十二年二月七日の犬追物手組。島津又六郎十九疋、税所左衛門尉十七疋、石井中務少輔九疋などの配当を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を大寺駿河守とする。
巻一/冊子 3~4頁
島津忠昌の子忠治・忠隆・忠兼(のち勝久)へと家督が移った経緯を述べ、忠兼の失政と実久との対立を背景に、島津忠良へ国政再建が託された事情を記す。忠兼は忠良に南郷を与え、さらに忠良の嫡男虎寿丸を養子に迎えるよう求めた。忠良は再三辞退したが命を拒みきれず、虎寿丸を鹿児島へ伴う。大永六年、忠兼が虎寿丸へ家督を譲り、虎寿丸は又三郎貴久と称した。記事は、島津氏の系譜、忠兼と忠良の盟約、貴久への禅譲を一連の家督再編として描き、国人がこれを三州安定の端緒として歓迎したと結ぶ。
巻一/冊子 6~7頁
天文五年、忠良父子が伊集院攻略を進め、伊集院大和守を将として大田原の塁を襲い、神殿・石谷・竹山などの拠点を相次いで服属させた。雨中の進軍時に火光のような瑞兆が現れ、稲荷大明神の加護と解釈されたことも記す。実久勢は鹿児島・谷山から川辺方面へ退き、忠良は実久と会見して、伊集院・鹿児島・谷山と加世田・川辺の交換による和睦を提案したが、実久は応じず、祁答院らと再び謀略を構えた。天文七年、忠良父子は蜘蛛の瑞を得て加世田へ出陣し、本城を急攻して落とし、新城も激戦の末に攻略した。富松左京亮・大山宮内少輔・阿多飛騨守ら実久方の戦死者と、市来備前守ら忠良方の戦死者を列挙し、忠良の祖父久逸が戦死した地で宿怨を晴らした戦いとして位置づける。