本田重親伝
年月日未詳 / 冊子 28頁
『本田重親伝』が、康安年間の初めに島津氏久が大姶良城を落として居城とし、康安二年七月十八日に西俣城を攻め取り、七十五町を本田重親へ与えたことを記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
16 件 (全巻)/ 1–16件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 28頁
『本田重親伝』が、康安年間の初めに島津氏久が大姶良城を落として居城とし、康安二年七月十八日に西俣城を攻め取り、七十五町を本田重親へ与えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 65頁
本田重親が島津氏久に従って各地の合戦・城攻めに参加した軍歴を記す。伊集院長門守・河上太郎・税所某らが関わる戦場での働きに加え、敵軍来襲時に十分な装備を整える間もなく軽装で出撃して防戦した逸話を挙げ、重親の忠節と実戦経験を伝える。
年月日未詳 / 冊子 570頁
本田信濃守重親が興国寺を建立し、泰雲和尚を開山としたことを記す本田重親伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 570~571頁
島津氏久による留主氏所領の没収と、加治木郷の法楽寺田・修理田、関所に関する権利が伊地知重貞へ与えられた経緯を記す本田重親伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 21頁
島津氏久の譜として、守護方と島山方が互いの隙をうかがって戦い、帖佐萩峰城の野本秀安と溝辺城の本田重親が相互に城を囲み、和睦して退いたこと、氏久が加治木土器園の要害を夜襲して陥落させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 105頁
天ヶ峯から平長谷へ陣を移した島津氏久方の戦闘を記す。財部勢が援軍として加わり、新納実久・本田重親らが部隊を編成して一揆軍の陣へ攻撃した。敵味方の隊列、先陣・後陣の動き、戦況の転換と勝敗を追い、救援軍の指揮系統を示す。
年月日未詳 / 冊子 105~107頁
山田聖栄が平長谷・天ヶ峯周辺の決戦を詳細に記した自記。島津氏久・北郷義久方と伊東・相良方の軍勢配置、各隊の進退、本田重親・新納実久ら武将の一騎打ち、負傷・戦死を挙げ、隊列が崩れた後の追撃と戦場収拾までを具体的に描く。
年月日未詳 / 冊子 22頁
肝付兼氏の譜として、姶良・鹿屋周辺の諸勢力と城郭をめぐる抗争、島津氏久方と菊池武光ら宮方の動向、各氏族の離合集散と合戦の経緯を記す長文記事。姶良城・末次城・鹿屋城などの攻防と一族関係を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 75~77頁
島津氏久譜中から、新納実久の元服、修理亮任官、所領賜与を記し、その後の志布志周辺での合戦を詳述する。畠山治部大輔方に対し北郷彦七郎・本田重親・石井肥後兄弟ら一族・被官が奮戦し、多数の戦死者を出した長期戦の経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 269頁/原整理番号 47
本田重親の家譜から、氏久が咲隈で税所氏と湯之領を争った後、姫木城石原口を攻める敵に応戦した記事を収める。氏久は四十騎ほどで危急にあったが、重親は子孫十三人と一族を率いて奮戦し、敵の強兵を討ったという。氏久が子の又三郎を安全に逃がそうとすると、重親は氏久への忠節を命じ、父子別離を悲しむ主従がともに泣いたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 49の7
二月下旬二十八日から三月一日の末吉・平波瀬・財部方面の軍勢を記す。御一家・御内の勢は千に足りず八百ほどで、月の軍勢を新納殿、杉の軍勢を本田重親が率い、別に二百ほどの氏久御馬廻を記す。両手が遅れた所へ横から入る相談と、旗役北原の進出に際して氏久が当日の下知を尋ね、重親が敵の後へ抜けるよう命じたと答えたことを記す。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
文治年間・貞治元年・永和3年・寛文10年ほか(系譜・由緒記事) / 冊子 462~468頁/原整理番号 無番号_0003
『諸家系図文書 二』の巻扉・収録諸氏一覧に続き、印刷番号15として平姓平田氏の系図と家伝を収める。桓武天皇―平宗盛―宗正―大炊助信宗に始まる系線、源平合戦後に佐能宗が一族を薩州草院へ隠したという由緒、信宗以来の帖佐・平田への移住、島津氏久・元久への奉公を記す。さらに寺社・城郭をめぐる討捕、川遊・狩猟時の警護、相良・北原・伊東勢との合戦、所領の給付・召返しなどの家伝と、宗次・宗保・宗光・宗勝以下の官途、婚姻、養子、没年、法名を寛文期まで詳述する。
年月日未詳 / 冊子 28頁
島津氏久の譜として、大姶良・濱田・横山の諸勢が氏久に帰属し、氏久方が大姶良城・末次城を攻略して稱市場で戦ったこと、山田忠経を城主とし、本田重親を西俣方面へ移したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 51~52頁/原整理番号 49の8
季安が月・杉の軍勢と『太平記』の十五夜・月弓の記事を引き、五手に分かれた陣編成を考証する。新納殿を越後守実久とし、その手に御一家の衆、杉の手の大将本田信濃守重親に地家の御内衆が付いたと解する。北原を梶原氏とみなし、左近尉の御幡指に関する記載と結び付ける。