永禄十一年戦死者交名
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
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永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
永禄十一年正月~七月 / 冊子 183~184頁
永禄十一年正月、伊東勢が篠小峯に陣して飫肥本城を囲んだため、北郷時久が酒谷へ援軍を出し、二十一日に本城勢と挟撃して伊東勢を破ったことを記す。二月二十一日の兵糧輸送戦では北郷忠俊・本田親豊・土持頼綱ら多数が戦死し、酒谷・本城は飢餓に陥った。貴久の命を受けた北郷忠徳が和議を進め、六月に飫肥を伊東氏、福島を肝付氏へ渡し、七月に島津忠親・北郷時久らが都城へ退いた。
永禄十一年正月~七月 / 冊子 187~189頁
永禄十一年正月、伊東氏が大軍で飫肥本城・酒谷間の篠ケ峯に陣し交通を遮断したことから、北郷時久が酒谷へ出陣して本城勢と挟撃し、一月二十一日に伊東勢を破った経過を詳述する。二月の兵糧輸送戦では島津・北郷方が敗れて多数が戦死し、本城は人肉を食するほど飢えた。北郷忠徳が和議をまとめ、六月八日に飫肥を伊東氏、福島を肝付氏へ渡し、七月に忠親・時久らが都城へ退去した。
永禄9年10月26日、慶長5年9月15日、慶長10年4月20日 / 冊子 21~23頁/原整理番号 7
本田氏十二代兼親の三男・親賢(源二郎、兵部少輔)を祖とし、肥駄隼人介の後嗣となった系統。親豊が肥駄氏を去って本田氏に復したこと、親次が永禄九年十月二十六日に三之山で戦死したことを記す。親商は惟新公の加治木在城時の家老で、関ヶ原退去の際に忠志を尽くし、蒲生地頭を務め、慶長十年四月二十日に没した。ほか、親昌(初名親信、実は比志島源右衛門国家)の慶長五年九月十五日関ヶ原戦死、上井・宇宿・友野・木脇・川畑諸氏との婚姻、養子・早世・法名を収める。