島津氏久譜
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
天正六年 / 冊子 535~536頁
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
天正六年秋~十一月十日 / 冊子 552~553頁
大友宗麟・義統が高城を包囲すると、十一月一日に島津義久・義弘らが佐土原へ到着した。十日夜、義弘が六百余人を進退させ伏兵で敵を誘い、五百余人を斬って松山陣へ放火した。十二日の根白坂合戦では本田親治・北郷久盛らを失うが、義弘・征久・忠長らが反撃し、大友軍を深淵へ追い落として耳川まで追撃した。
天正六年十一月十一日~十二日 / 冊子 557頁
大友宗麟・義統が高城を包囲したため、十一月十一日に島津義久が根白坂へ進み軍容を示した。決戦で本田親治・北郷久盛が戦死し大友軍が追撃に出たが、義弘が自ら矛を執って立ちはだかり、島津以久と忠長が敵軍を横撃して崩した。その二人の大功を称える。
天正六年十一月十二日 / 冊子 557~558頁
大友宗麟・義統が高城を包囲すると、島津忠長は義久軍に従って佐土原へ進んだ。十一月十二日の決戦で本田親治・北郷久盛らが戦死し大友軍が追う中、義弘が反撃し、征久・忠長も数万の兵で横撃した。大友軍は逃げ場を失い深淵へ入り、多数が溺死したと記す。
天正六年十一月十日~十三日 / 冊子 599~602頁
十一月十二日の根白坂・耳川合戦を詳述する。北郷相久・忠虎らが奮戦し久盛らが戦死、本田親治も討死して島津勢が一時退くが、義弘・征久・忠長・伊集院忠棟らが一瀬川で支えて反撃した。大友軍は深淵と耳川へ追い込まれ、佐伯氏ら多数の将兵を失った。家久も単騎で追撃し、十三日に義久が敵本陣で凱歌を挙げた。
天正六年十月二十五日以後 / 冊子 602~612頁
十月二十五日の島津義久出発から耳川合戦後の帰陣までを記す別本。三納反乱鎮圧、紙屋での夢中詠、佐土原の軍議、十一日の伏兵による松山陣攻略、十二日の大友軍総攻撃と本田親治らの戦死、義弘・征久・忠長らの横撃、家久・山田有信の追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞を詳述する。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
天正六年十一月十日~十二日 / 冊子 626~627頁
大友大軍に対し通常の戦法では勝てないとして、島津方が十一月十日に敵の往来へ伏兵を置き、翌日わざと退いて松山陣勢を誘い出し討ち取った。十二日の決戦では大友軍が島津方を押し、一時多数の戦死者が出たが、島津征久らの横撃で敵を谷瀬川の深淵へ追い込み、大友軍を敗走させた経過を記す。
天正六年頃 / 冊子 534~535頁
島津義久代の老中八人と使衆八人を列挙する交名。老中に平田美濃守光宗・川上左近将監・伊集院忠棟・村田経定・喜入季久・本田三清・上井覚兼・町田久倍、使衆に新納康久・伊地知重直・税所篤和・吉田清治・鎌田政景・本田親治・比志島国貞・伊地知重秀を掲げる。
天正六年十一月十日~二十八日 / 冊子 555~556頁
十一月十日夜、義弘が六百余人を用いた伏兵で大友方を誘い、松山陣を崩した。翌日伊集院久治が高城へ入り、河原陣から和議の申し出もあったが、十二日に大友軍が決戦を挑んだ。本田親治・北郷久盛らを失う一方、義弘・征久・忠長らが横撃し、家久・山田有信も城外へ突出して敵を深淵と耳川方面へ追撃した。十三日に凱歌を挙げ、逃散民を保護し、二十八日に義久が帰陣した。
貞治5年11月(目録) / 冊子 183頁/原整理番号 2
正興寺の二天像・影像に関する旧記の抜書。「自家旧記」に、親春の代に正興寺の二天を造り、左を氏久、右を親春の姿としたという伝承を引く。続いて本田親治の影像が廟所正悟院にあるとの記載などを掲げ、像の由来を考える材料とする。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 483~485頁
天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 485~487頁
島津義弘の視点から高原城攻めを記す。義弘が伊東方の越境を止めるため出兵を義久へ提案し、諸軍を率いて進発した。門壁攻略と断水の後、家久・忠長を中心に人質交換を整え、伊東新二郎以下が退城、高原・三山・須木など八か所を獲得し、義弘は三山城に入った。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 490~493頁
義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年八月~十月 / 冊子 497~498頁
伊東氏との長年の抗争から高原城攻めに至る経緯を叙述する。義久・義弘・北郷時久らが城を攻め、双方に多数の死傷者を出したが、断水と人質交換により伊東勘解由が退城し、高原・高崎・三山・須木など八か所が島津方に属した。戦後、覚兼が時久へ田野城攻略を諮問した。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁/原整理番号 48
山田聖栄の自記から、氏久が税所方と球麻の相良を敵にして戦い、大隅を患った経過を記す。姫城を落として本田親治・氏親父子を守護代に置き、清水・湯峰でも戦い、氏親らと税所の子が討死し、氏頼は深手を負ったとする。続いて味方の少勢で求麻・和泉・山北の軍勢と戦う場面、碇山金吾の太刀振舞い、師久の名代として出陣した碇山金吾元久と新納将監が肥後白川で討死したことを伝える。
目録年月日記載なし / 冊子 183~184頁/原整理番号 3
氏久の法名や正興寺・御真影の由来に関わる旧記抜書。氏久の法名「玄久」や本田家に伝わる記事を引き、火災、御石塔、願文の伝来を挙げて前段の影像考証を補う。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
弘治元年、天正6年、天正15年4月17日 / 冊子 19~21頁/原整理番号 6
本田氏十二代兼親の二男・親貞(初名親成、又五郎、刑部少輔、因幡守、入道一恕)を祖とする系図。家嫡董親の背命・悪虐をたびたび諫めながら聞き入れられず、守護に属して忠義を守った由緒を記す。後裔では友親の大隅州西原での戦死、盛親の弘治元年岩剣城攻略、親治の加世田地頭と天正六年新納院高城での大友軍との戦死、親秀の義久家老・出水地頭、親光の朝鮮での軍功、親智の忠恒奉仕と背命による誅殺、親盛の目白坂戦死、甑島・湯之尾・禰寝・高江・馬越・野田などの地頭職、婚姻・養子関係を収める。
貞治5年11月(目録) / 冊子 184~185頁/原整理番号 4
正興寺の仁王像・御真影に関する願文と旧記の照合。願文を実際に見たか、寺伝に基づく叙述なのかを問い、本田家・氏久の影像の安置、古文書の伝来、破損や修理に関する異説を挙げて、根拠を吟味する。