島津忠昌譜
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十四日、福島の大馬場・惣門口で合戦し、長井宋女・曲田甚太郎らに戦死者を出しながら敵を退け、新山城に陣営を置いた経過を記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十四日、福島の大馬場・惣門口で合戦し、長井宋女・曲田甚太郎らに戦死者を出しながら敵を退け、新山城に陣営を置いた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年六月十六日、伊東勢が新山城へ攻め寄せ、味方の宮田・樗木らが戦死したことを記す。数年に及ぶ戦いで豊州方の軍勢が疲弊し、勢力が衰えた状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 511~512頁
霜月十四日の犬馬場・惣門口合戦と十七日の郡本陣衆の戦闘を日を追って記す。島津忠昌方と伊東祐国・新納近州方の布陣、長井宋女・曲田・山田・肝付諸氏の動き、双方の戦死者を列挙し、近江守の退移と新山城への再布陣までを追う。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城を襲ったが、北郷家臣らが加勢して防戦し、敵を退けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城へ忍び寄って火箭を放ち、北郷・豊州方の家臣が戦死者を出しながら防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 867~868頁
天文十七年十二月十四日夜、伊東勢が再び新山城を攻めて火箭を射た際、村田八郎らが防戦し、本城の援兵とともに敵を退けた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年の飫肥東光寺・新山をめぐる合戦を記す。肝付勢の志布志口出兵、六月十六日の新山攻めと宮田織部らの戦死、九月二十日の飫肥・北郷勢による東光寺攻撃を伝える。
年月日未詳 / 冊子 55頁
永禄元年の島津氏周辺の軍事・家政記事。肝付兼続の庄内侵攻、恒吉宮ヶ原での北郷・肝付両軍の戦い、志布志・飫肥新山城の攻防と戦死者を記し、十二月には島津支族が所領名を氏とする改姓を命じられた。
年月日未詳 / 冊子 58頁
永禄元年の恒吉宮ヶ原、志布志、飫肥新山城などの戦闘で討死した北郷・豊州両家ほかの将士を、日付・戦場・所属とともに列挙する。多数の戦死者と異同注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日、伊東勢が飫肥新山城を大軍で攻め、北郷忠孝・久信、知覧忠幸らが戦死し、士卒にも多数の死者が出たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 64頁
永禄元年十一月五日の飫肥新山城合戦を詳述する。伊東勢の猛攻で北郷忠相の二男忠孝と三郎右衛門久信らが討死し、三月の久慶戦死に続き忠相が子を失った悲哀と、多数の将兵の戦死を記す。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁
永禄元年十一月四日に新山城が攻め落とされ、多数が戦死したことと、十二月二十三日に薩摩・飫肥・庄内三家の軍が反撃した戦闘を記す。島津忠将を大将とする諸将の槍働きや負傷を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 65頁
新山城からの落人が水不足を告げたため、伊東方が永禄元年十一月四日に城を包囲し、二時間ほどで攻略した経過を記す。知覧忠幸らをはじめ百五十余の首級を得、伊東方にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 67頁
永禄元年冬、島津方と肝付氏が戦った経緯を記す。清ヶ島で肝付方の有力者が多数討たれた後、兼続が少人数で踏みとどまり敵を退けたこと、伊東方が新山・南郷方面から櫛間を攻めた状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 99~100頁
永禄四年霜月、伊東方が兵糧不足を理由に島津忠親へ城の明渡しを迫ったため、忠親方は鎌ケ倉の兵を新山へ移した。十二月に使僧と日置周防介を山東へ送り、佐土原方との和睦を整え、宮薮を引き渡して番衆を入れた経過を記す。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
永禄元年~永禄九年 / 冊子 157~159頁
永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。
永禄十年三月吉日 / 冊子 165頁
薩摩国阿多郡新山村の大日如来像を造立した由緒書。日新を護持信心の大檀那とし、諸人の息災延命、子孫繁昌、現世安穏、後生善処を願い、伯囿貴久・義久・義弘・歳久・家久らの名を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
慶長十三「二」年閏四月廿八日 / 冊子 115頁
慶長十二年閏四月二十八日、川上忠兄と伊勢貞成が薩州阿多新山村内の御祓田之門、高六十石余を蒔絵屋彦七に与えた連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 616~620頁
新納忠親の三男久明を祖とする支流系図。串良・飫肥新山での戦死、島津豊後守・伊集院忠棟への奉公、日置氏からの養子相続、松山士として島津忠康に附属した忠成、時昭以下へ続く家系を記す。
年月日未詳 / 冊子 730頁
北郷忠親流の系図を続載し、忠孝の飫肥新山戦死、久慶の宮ケ原戦死、久通以下の家系、女子の島津征久への婚姻などを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
北郷忠相の二男忠孝を祖とする財部支流系図。忠孝が財部地頭として飫肥新山合戦で戦死したこと、忠増が忠虎の家老を務めたこと、久延が財部地頭・家老として朝鮮役中に軍代を務め、幼い久加の人質上洛に随行したことを記す。
文禄3年(1594)2月13日 / 冊子 379~380頁/原整理番号 188-22
文禄三年二月十三日、町田出羽入道存松が蒲地孫四郎へ示した薩州伊作内の領知目録。田尻名田代野門の三枚田・道上・楠木か丸・山の口・山神乃前・新山、大園・岩下・居屋敷・紺屋敷、祁答院塔之原内の浮免として東郷播磨先替地田・三嶋領くミ迫・養春院先名の木田、畠方のうるし畠・黒井堀を掲げる。田畠の合計は五町八反五畝五歩、分米は四十五石八斗四升六合である。
年月日未詳 / 冊子 285~286頁/原整理番号 92
『応永記』が、応永四年四月下旬、伊久・元久らが山北・鹿児島・日隅各地の軍勢を集め、清色城を攻囲したと記す。黒瀬・木場原・満手野・野頸・寿昌寺の峰などに陣を置き通路を遮断したが、河と険山のため道貞の旧攻囲と同じ難儀を受け、味方や子息を派遣して守護方にも事情を伝えた。高江では渋谷の計略とされる侍三十八人の切腹があり、清色城も食糧・矢弦不足の中で内通者を得られず没落した。その後、新山寺で渋川探題らが対面し、座席・礼・酒宴の次第を記し、探題は膝の不調で滞在したのち十月下旬に帰ったという。
年月日未詳 / 冊子 852頁
天文十七年、日州飫肥・清水・新納新山城などで戦死した島津方の武士を日付と戦場別に列記する。
年月日未詳 / 冊子 65~67頁
新山城落城後、豊州家の要請を受けた島津貴久が島津忠将を大将に三千の援軍を飫肥へ送った記事。十二月二十三日、伊東勢との激戦で島津方の物頭らが討たれた一方、伊東方は百九十八の首級を挙げたとする。
文禄3年2月13日 / 冊子 767頁
薩州伊作領内にある町田存松の領知を、門・集落ごとの石高とともに列記した目録。田代野の門、三枚田、道上、楠木か丸、山の口、山神の前、新山など多数の地名を掲げ、畠方・浮免を合算する。 伊作地域の村落構成、地名、知行高を具体的な数値で復元できる土地台帳である。
天保5年11月6日 / 冊子 1004~1005頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2736
白木御文書九番箱中三十九番の知行目録。調所笑左衛門広郷に高五百石を与えるもので、伊集院春山村・麦生田村、蒲生白男村・米丸村、帖佐住吉村、姶良郡山田大山村、市来養母村・長里村・神之川村、飯野大明司村・杉水流村、加久藤榎田村・西郷村、大村上手村、志布志帖村・有明野村、山之口村、山崎二渡村、樋脇市比野村、吉松中津川村、勝岡樺山村、阿多新山村・宮崎村・中津野村、小林真方村、串良岡崎村・上小原村、出水下大河内村、東郷田海村など各地の村・門・屋敷・浮免から合計五百石を宛てる。財政改革一件の発端以来、広郷が取扱いに抜群の功績を上げたため、前年三月に江戸で拝領を命じられた褒賞であり、所務を全うするよう記す。天保五年十一月六日、市田美作義宜・島津但馬久風・菱刈安房隆観・諏訪治部武敬連署。
本文末尾:貞治五年七月十日 / 冊子 667頁/原整理番号 〇三九/整理ID TMP-OF-P04-D039
出舉御米五拾石を今年中に返進する旨を記す。 無沙汰の場合は、阿多郡内新山・太田・上床三ヶ村について、米に相当する程の知行を認める旨を置く。泰久・通喜が花押を伴って連署する。