指宿氏系図
年月日未詳 / 冊子 32~33頁
指宿氏の系図。指宿郡司又次郎忠連を起点に、忠篤・忠泰・忠勝・忠元・忠平らの系統、入道名、討死や寺院関係などを図示する。
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年月日未詳 / 冊子 32~33頁
指宿氏の系図。指宿郡司又次郎忠連を起点に、忠篤・忠泰・忠勝・忠元・忠平らの系統、入道名、討死や寺院関係などを図示する。
年月日未詳 / 冊子 55頁
指宿能登守を祖として、忠篤から忠泰次郎・忠勝能登守・忠元左京亮・忠平掃部介へ連なる系譜を示した指宿氏系図。
寛永十九年九月吉日 / 冊子 552~556頁/原整理番号 94の1
横山忠篤が横山家の由緒と奉公を書き残した覚書。祖先東條安房が島津忠久の下向に随従した由来から、歴代の名乗り、所領、各地の合戦・負傷・奉公を記し、後代のため古日記などに基づいてまとめたとする。寛永十九年九月吉日付。
享和2年7月18日生(文化元年との異説注)、文化10~文政10年改名・許嫁・婚姻(本文) / 冊子 205頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0662
近秘野帥の斉宣公御子・女子於長の系譜。長姫・聰姫・苗姫・聰姫と名を連記し、阿部飛騨守正篤夫人、小字房丸とする。享和2年壬戌7月18日府城生(阿部氏は文化元年とする注)、母丹羽氏蓮亭夫人、実母青木休右衛門盛晏女・名琴。文化10年より前に島津太郎次郎へ許嫁、この12月に命により取りやめ長姫へ改名。11年2月聰姫へ改名、8月27日に啓之助君と府城を発ち、11月6日江戸着。12年11月に苗姫へ改名、14日に水野周防守忠篤(上総鶴牧1万5千石)へ許嫁、12日結納と記し、13年7月8日に忠篤卒・心喪3旬。文政2年6月に立花伯耆守(筑後柳川11万9千6百石)へ許嫁、3年10月11日に婚約を解く。6年12月阿部房丸へ許嫁し聰姫へ改名、27日に阿部氏へ適く。房丸の年齢について22と20の異説、出生を文化元年7月17日とする注があり、文政10年7月に聰姫へ改唱したと記す。複数の許嫁・解約と実際の入家、改名時点、結納と許嫁の日付の逆順、出生異説を原記載のまま分ける。
八月4日~九月27日、帰還の回顧は十月初旬・6日も含む / 冊子 595~597頁/原整理番号 778/整理ID 778
忠義公の御系図。八月四日の村松城攻略、十日の忠義急上京召命、十一日の村上城攻略を記す。二十日から会津攻撃の軍議・玉井村等への進出を掲げ、二十一日の母成嶺、二十二日の猪苗代、二十三日の若松城攻撃、二十四日の外郭への退兵と持久攻撃を叙述する。羽州方面の戦況も記し、二十八日に忠義が上京の詔を受け、この時に主上東幸中の京都留守・参政・警衛を命じられたとする。同日の米沢藩降伏と上杉斉憲、二十九日の春日艦久保田港到着と庄内攻撃を記す。九月は五日の若松方面応援、十二日の関川寨、十五日の刈和野・十六日の羽州戦闘等、十八日の容保請降と二十二日の父子出降・九番小隊半隊護送を述べる。二十四日の各隊の凱旋を記し、一部の十月六日帰還や十月初旬の動きにも触れる。九月二十七日の庄内藩主酒井忠篤降伏、薩州諸隊の入城と凱旋で終わる。戦果・降伏経過と敵対語は系図側の叙述として示し、他報告との重複集計はしない。
文永9年11月12日(1272) / 冊子 453頁/原整理番号 14-3
平忠成が嫡男・又二郎宗忠へ、先祖相伝の指宿郡司職、田畠・山野・河海、および開門神宮宮司職を譲った文永九年十一月十二日付譲状。関係証文を添え、所領の様体を書き記して譲与するもので、将来にわたり他から妨げられず知行するよう定める。本文後の系譜には女子から重秀・忠直へ続く線と、忠篤が幼名彦鶴丸、指宿郡司彦次郎、入道成笑を称したことを記す。
朱明治元辰十月26日六署、謝罪状略注は共に九月 / 冊子 612~613頁/原整理番号 788の1/整理ID 788-1
通達留。伊達陸奥と酒井左衛門が降伏し、別紙の通り謝罪状を差し出したと京都から知らせがあったため、向々・諸郷・私領へ周知し、地頭・領主へ伝えるよう命じる。掲載は謝罪状二通を略すと注し、両方とも九月と記す。両南部も同様に謝罪状を出したと聞くが、この便までは写が得られず、追って送るとの知らせを但書に付ける。朱明治元辰十月二十六日、備後・圖書・右衛門・龍衛・内膳・良馬の六署。降伏と謝罪は通達側の報告として記し、略された二状の全文や両南部の実名・写の到着は補わない。
年月日未詳 / 冊子 691頁
建武四年五月以降の肝付兼重らの動向を記す伝記記事。泰季が守護領を分封したこと、上聞のため使者を遣わしたこと、六月四日に高家命で河上家久入道導乗らを権領河上名へ派遣したこと、益山四郎・大隅式部三郎らによる市来・松原口等の合戦、負傷・戦死、諸将の入道・任官を記す。
天保4年4月8日夜酉刻(年次目録、月日は前項継承、時刻本文) / 冊子 966~969頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2700
重豪公御譜中の記事。同日夜酉刻、客殿から霊棺を下ろして葬場へ出し礼式を行ったと記す。葬馬二疋、灯籠、幢、香炉、茶・湯の碗、花瓶、燭台、松明、茶湯提子などの役と供人を列記する。島津内匠久徳が斉宣の代として神主を奉じて棺前に並び、三回拝礼した。棺の前後の轅、太刀・脇刀・天蓋の役、一門・家老・若年寄・大目付・近侍の供奉を記す。奠茶は長年寺台巖、奠湯は津友寺董宗、導師は福昌寺崑山で下炬の文を唱え、維那は大翁軒寛山。諸宗派・本山、三州の諸士、在館琉球人、親族と使者が墙外で拝し、葬礼後は涅槃門から廟所へ葬った。六頁に続く法語は、重豪の勇威・仁慈、文武・治政・教化、八十九年の寿と功徳を讃え、無量・自性・生滅を超える禅の教説を茶・湯・下火の儀礼に結び付ける。役列・名列、参列範囲、葬送の順序、讃辞と禅の比喩を分けて精読記録に保持する。前項の八日の法筵に続く同日夜の葬送として記録し、No.2695・2696の六日夜の内葬予定をこの日に置き換えない。
No.778の八月28日以降~九月27日等の続き / 冊子 596~597頁/原整理番号 778(続き)/整理ID 779
No.778の系図記事の続き。米沢藩の降伏、春日艦の久保田港到着、九月の会津・羽州方面の戦況、容保父子の出降・護送、庄内藩主の降伏と諸隊の凱旋を収める。全文はNo.778にまとめて整理した。