島津光久詩文
万治四年三月十一日 / 冊子 437頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0928
光久が中山国王子尚氏朝周へ呈した詩序と二章の詩。王子が千里万頃を遠し難しとせず来訪した厚い礼を喜び、その容貌辞気と才能を国器・鳳毛・瑤林瓊樹に比して称賛する。光久自身が三月の述職の勤めに東行を急ぐため、浮萍・恨別鳥驚心・春燕秋鴻の恨などの句で別離を惜しみ、二章の詩を贈る。
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万治四年三月十一日 / 冊子 437頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0928
光久が中山国王子尚氏朝周へ呈した詩序と二章の詩。王子が千里万頃を遠し難しとせず来訪した厚い礼を喜び、その容貌辞気と才能を国器・鳳毛・瑤林瓊樹に比して称賛する。光久自身が三月の述職の勤めに東行を急ぐため、浮萍・恨別鳥驚心・春燕秋鴻の恨などの句で別離を惜しみ、二章の詩を贈る。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。
年未詳4月7日 / 冊子 271~273頁/原整理番号 107-14
卯月七日、昌州(傍注では連歌師昌叱か)が某人へ、先日その地へ参上して宿所を訪ねたが留守だったと伝え、京都連歌の『御かし』を平田与進のもとへ送る件について、料紙をまだ用意できないため、まず自分の愚作を差し上げるので書写して返してほしいと頼んだ書状。付属記事は、慶長十六年正月に龍伯が没した後、上原尚氏が鹿府に居住し、食禄百五十一石(国分高帳では百五十三石)で府籍に登ったこと、慶長十八年十二月に大坂事への備えとして老齢のため夫三人を出したこと、元和六年二月の百石以上四分一収公に応じ、残る百五石を食んだことを記す。さらに分家の尚演が家久の御納戸役となり、元和七年の犬追物で四疋を射、寛永九年には食禄七十九石を登録したこと、横川・清水郷・伏見・南林寺等に関わる尚演以下の分家・養子・還俗・御用人・近習役などを系図で示す。連歌書状に上原氏の近世初頭の知行縮減、軍役負担、役職、分家系譜を連ねた構成が特徴である。
康熙59年(1720)の冊封記事まで / 冊子 383~389頁/原整理番号 2
琉球国中山王の王統を、舜天から尚敬王まで系線と歴代記事で示す長大な世譜。舜天を清和天皇の後裔・鎮西八郎為朝の子源尊敦とし、為朝が保元の乱後に伊豆大島へ流され、五島を攻略したのち琉球へ漂着したという由緒、尊敦が浦添で成長して逆臣利勇を討ち、按司らに推されて王位に就いた経緯を記す。舜馬順熙・義本に続いて天孫氏裔の英祖が立ち、大成・英慈・玉城・西威を経て、察度が国人に推され、洪武年間に明へ朝貢して『琉球』の国名を賜ったとする。武寧の後、佐敷按司で山南王となった尚巴志が三山を統一し、明から尚姓を賜った第一尚氏の王統を尚忠・尚思紹・尚金福・尚泰久・尚徳へ連ねるが、尚徳の暴虐によって国人が離反し、世子を廃して尚円を立てたと記す。第二尚氏は伊是名出身の尚円から尚宣威・尚真・尚清・尚元・尚永・尚寧以下へ続き、各王の在位年、即位年、寿齢、明・清の冊封使と中国年号を付記する。尚寧代には慶長十四年の薩摩軍侵攻、薩州への渡海と降伏、翌々年の帰国、以後毎年薩州へ納貢したことを特記し、尚豊・尚賢・尚質・尚貞・尚純・尚益を経て尚敬王に至る。末尾は康熙五十九年、清の正使海宝・副使徐葆光による冊封を掲げ、王統の一部には『伝信録』その他の引用を添える。