行査書状
(文保元年)七月廿三日 / 冊子 548頁
伊作庄・日置北郷の預所と地頭の所務争論について、大宰府では雑掌承信が訴えた一方、京都では雑掌信宗と地頭代道慶が双方の名を書き違えて和与したと報告する。大宰府で承信に沙汰させ、裁決を求めた行査書状。
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(文保元年)七月廿三日 / 冊子 548頁
伊作庄・日置北郷の預所と地頭の所務争論について、大宰府では雑掌承信が訴えた一方、京都では雑掌信宗と地頭代道慶が双方の名を書き違えて和与したと報告する。大宰府で承信に沙汰させ、裁決を求めた行査書状。
享保四年二月 / 冊子 404頁/整理ID 1041
享保四年二月、梅園が薩摩守へ、書状に謝し、相手が変わりなく無事との知らせを喜ぶ。平松少納言時春が今回三位を勅許されて喜んでいる旨の書状を読み、たいへんありがたく思うと伝える。
元禄十四年六月二十一日 / 冊子 312–313頁/整理ID 1024
石井少納言行康が松平薩摩守へ、去る十三日に平松宰相亭で久々にゆっくり面会できたことと、近衛殿で万事首尾よく済み関白らも喜んだことを喜ぶ。取り持ちについて謝礼を述べられたのは過分とし、本来こちらから書状を出すべきところ、先便を受けて返書になったと伝える。
三月十一日 / 冊子 653–654頁/整理ID 2245
平松少納言時春が三月十一日、薩摩守吉貴へ、旧臘の少納言任官を祝う太刀・馬代黄金十両の受贈に謝する。石井宰相行豊・交野宮内卿時香の加階にも祝意を受けたことを追記する。
本文三月(日不記)、交付首尾注:辰三月朔日 / 冊子 529頁/原整理番号 689の2/整理ID 689-1
近来諸所に暗殺があり布告してもなお止まらず、重ねて済まし難いとして一層厳重な取締を命じる旨を伝える。諸藩に心得違いの者はいないはずだが、各所に多人数が詰めているので十分に監督を行き届かせるよう求める。取締は裁判所にも命じてあるため、承知の上で相談して取り計らうよう付記し、本文末は三月。首尾注は、朔日に太政官代へ重臣・留守居の内から出頭するよう刑法局から廻状が届き、隈元敬一郎が出て五条少納言から渡されたこと、触下にも写しで廻達するよう求められて処置した旨の、新納嘉藤二から伊勢様への首尾書があると記す。その首尾書正文は略す。
元禄十四年十二月二十六日 / 冊子 337–338頁/整理ID 1118
石井行康が島津綱貴へ、宮内卿が右衛門督に任じられたことを報告し、綱貴から祝詞を贈られた厚意に謝した書状。
元禄十六年十二月六日 / 冊子 449–450頁/整理ID 1542
石井行康が島津綱貴へ、先月十八日の江戸大火と二十二日の大地震に驚いたと述べ、田町御屋敷は類焼した一方、芝・高輪御屋敷は無事と聞いて安堵した書状。綱貴の遠国での心配を察する。
宝暦十一年(記事。本文四月二十三日~十一月二十五日) / 冊子 846~847頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2523
重豪は四月二十三日、島津杢・主鈴らと芝邸を発ち、五月十一日に伏見、十二日に京都へ入り、阿部伊豫守に将軍の安否を伺い、近衛内前と初対面して平松中納言・交野少納言を交えた会食を受けた。十五日に伏見へ戻り、京橋から大坂へ下り、十九日に尼箇崎へ渡り、山陽道・赤間関・大里を経て六月十九日に出水、二十三日に鹿城へ入った。謝恩使島津又七郎久芳は江戸へ赴き、家重死去後の八月五日に留守居を通じて諸役へ礼をし、九月朔日に重豪の白芭蕉布二十巻・鯛一箱・昆布一箱・鰒一箱・御樽二荷を家治へ献じ、自身も太刀一腰・白紗綾二巻・馬代銀一枚を献じた。二十五日に酒井忠寄から重豪への奉書と自身への「綾綾」二巻を受け、十月三日に芝邸を発ち、十一月二十四日に薩摩府へ帰り、翌二十五日に登城して復命した。
本文日付・年次未記載:七月廿三日 / 冊子 621頁/原整理番号 一二七/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0127
行壹書状は、伊作庄・日置北郷の預所と地頭の相論所務を扱う。 雑掌承信が宰府で沙汰したことと、京都からの挙状に触れる。 地頭代道慶の名字が両方の書状で違う件を挙げ、沙汰・披露を求める。 七月廿三日付で、少納言法眼御房を宛所とする。
元禄十三年三月四日 / 冊子 206頁/整理ID 701
平松少納言時春が松平薩摩守島津綱貴へ、自身の四品叙任勅許に対する祝賀書状と目録記載品を贈られたことに謝意を述べ、返礼の祝儀として太刀・馬代を進上した書状。
元禄十四年五月二十四日 / 冊子 302頁/整理ID 996
石井宮内卿行豊が松平薩摩守島津綱貴へ、帰国途上の伏見屋敷で少納言とともに訪ねる予定だったが、綱貴が近衛殿を見舞い平松宰相も出向くため伏見訪問を取りやめ、そちらで面会すると伝えた書状。
十二月廿三日 / 冊子 543頁/整理ID 1862
島津吉貴が石井少納言行豊へ、亡父薩摩守綱貴の死去に際して弔意を寄せ、自筆の経を贈ったことに礼を述べた書状。
三月廿一日 / 冊子 653頁/整理ID 2244
平松時方が松平薩摩守島津吉貴へ、子の時春が前年冬に少納言へ任じられたことに対する祝書と御肴一種に謝した書状。二人の弟の加階にも祝意を受け、時春らへの個別の祝儀にも礼を述べた。
三月十一日 / 冊子 654頁/整理ID 2246
交野宮内卿時香が三月十一日、薩摩守吉貴へ、旧臘の自身の昇進を祝う書状、太刀・馬代黄金十両を贈られた厚意に謝する。石井宰相・平松少納言の昇進も併記し、後の慶びの時を期す。
三月廿一日 / 冊子 654頁/整理ID 2247
石井行康が松平薩摩守島津吉貴へ、前年冬の従二位昇進を祝う御肴一種に謝した書状。交野宮内卿と平松少納言も昇進したことを重ねて喜んだ。
宝永二年八月晦日(初参)・十月五日(死去)・七日夜(遺体移送)・十日酉刻(葬礼) / 冊子 593頁/整理ID 2012
綱貴公御子亀姫君伝中に、八月晦日、亀姫が前関白基熙の堀川御所へ初参し、平調五常楽・合歓塩・長慶子の音楽を聴いたことを記す。基熙の和琴、石井少納言の笛、櫛笥中将の琵琶、四辻の笙、監役らを列記する。同年秋に病み療養・投薬の効なく十月五日京都の邸で十六歳で死去。七日夜半に遺体を大徳寺へ移し、十日酉刻に葬礼、法諡は英光院殿覚樹圓明大姉、大徳寺輪番湘南和尚が引導した。後に位牌を薩州福昌寺内深固院へ置いたとする。