島津家久覚書
(元和六年)十二月十九日 / 冊子 739頁
島津家久が、頴娃主水・白七・ぬく弥の成敗、七島へ遣わされた理心女房の罪が確定した場合の男女とも死罪、高闇孫市の所在究明を命じた覚書。
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(元和六年)十二月十九日 / 冊子 739頁
島津家久が、頴娃主水・白七・ぬく弥の成敗、七島へ遣わされた理心女房の罪が確定した場合の男女とも死罪、高闇孫市の所在究明を命じた覚書。
二月五日 / 冊子 54頁
敵山城の様子を偵察して攻撃するため、夜間では見極めにくく少人数では危険として、翌日に五、六百人を派遣し、偵察結果を見て翌日働く案を示し、島津義弘の判断を仰いだ書状。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
11月28日 / 冊子 428~429頁/原整理番号 401の3
十一月二十八日、四右衛門・与四右衛門・七右衛門・三之丞・又左衛門・藤吉・次郎四郎・析右衛門・孫市の九艘について、船型、舟頭・水手人数、赤米支給量を列記する。同日以後二十日分を舟頭一人一日一升、加子七合五勺で算用して各人へ渡すよう命ずる。与四右衛門船は総員八人・舟頭二斗に対して「加子四人・赤米一石五升」とあり、人数と算用の食い違いを推定訂正せず残す。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
(寛永十四年)11月28日 / 冊子 433~434頁/原整理番号 405の6
串木野衆の春田大左衛門主従二人に真米・赤米各一斗を掲げ、奥書は前文書と同じとする。続いて各船の舟頭・加子と飯米を列記し、串木野から天草へ仕立てた大小九艘へ十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を渡したと記す。舟頭は一日一升、加子は一人七合五勺で、平田民部少輔の帰宅に伴う次飯米の手配と九艘の送状を添える旨を是枝喜右衛門へ知らせる。